詩人・平田俊子 × 「クリムト展」 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。
今回は詩人の平田俊子さんに、東京都美術館(東京・上野公園)の「クリムト展」を鑑賞していただきました。
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平田俊子(ひらた・としこ)
詩人。詩集『戯れ言の自由』(紫式部文学賞)、『詩七日』(萩原朔太郎賞)。小説『二人乗り』(野間文芸新人賞)。エッセー集『低反発枕草子』『スバらしきバス』。2015年から読売新聞「こどもの詩」選者を務める。
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クリムト展 ウィーンと日本 1900
2019年4月23日(火)〜 7月10日(水) 東京都美術館
2019年7月23日(火)〜 10月14日(月・祝) 豊田市美術館(愛知県豊田市)
19世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918年)の没後100年、日本とオーストリアの友好150周年を記念し、日本で開かれたクリムト展としては最多となる27点(東京会場)の油彩画を展示。「黄金様式」と呼ばれる華麗な女性像や、全長34mの壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の精巧な複製、同時代のウィーンで活動した画家たちの作品によってクリムト芸術の世界を紹介する。

「クリムト」になる前のクリムト
金工師の長男としてウィーン近郊に生まれたクリムトは、14歳でウィーンの工芸美術学校に入学します。そこで装飾絵画などを学び、弟のエルンスト、同級生のフランツ・マッチュと共に「芸術家カンパニー」を名乗って、劇場や邸宅の天井画、壁画などの建築装飾を請け負いました。
彼らの仕事は評判を呼び、ウィーン美術史美術館の壁画制作などの大きな仕事も手がけました。展示された下絵や習作を見ると、クリムトは神話や故事などを写実的に描く歴史画家であったことがよく分かります。クリムトの絵画というと金箔とさまざまな文様で埋め尽くされた女性像のイメージが強いですが、「芸術家カンパニー」の時代の作品はまだ「クリムト」になる前のクリムト、という感じを受けます。
エルンストの娘ヘレーネの6歳の肖像画は、印象派の影響が指摘されています。すっきりした背景と白いドレスだから茶色い髪やバラ色の頬が際立ちますね。クリムトには成熟した女性の肖像画が多いので、子どもの絵は新鮮です。6歳にしては大人びていますね。やがて成熟した女性になることを予感させるような横顔です。
グスタフ・クリムト《ヘレーネ・クリムトの肖像》 1898年 油彩、厚紙 59.7×49.9cm
ベルン美術館(個人から寄託) Kunstmuseum Bern, loan from private collection
ヘレーネの顔に比べて髪の占める部分が多く、むしろ髪を描きたかったのかな? と思うほどです。クリムトの描く女性像は豊かで奔放な髪型が多い気がしますが、女性の髪に特別な興味があったのでしょうか。当時は短く切り揃えられた髪は珍しく、モダンな髪型だったそうです。
生涯独身、モデルとの奔放な関係・・しかし特別な女性も
クリムトは生涯独身で母や姉妹と暮らしていましたが、絵のモデルになった女性たちと次々に関係を持ち、非嫡出の子どもが何人もいたそうですね。ちょっとどうなのと思いますが、義理の妹(エルンストの妻の妹)エミーリエ・フレーゲは特別な存在だったようです。プラトニックな関係とされていましたが、1970年代末や2000年になって公表された手紙やメッセージカードの内容から、2人はもっと深い関係にあったとも推測されるようになりました。展覧会にはクリムトが彼女に宛てた手紙が7通ほど展示されていますが、図録の翻訳を読むと、「君は僕のガゼル、僕の可愛い人」とか「心からの濃密な長い長いキスを贈るよ」といった熱烈な言葉が書き連ねられています。

エミーリエが持っていた舞踏会の記念品の手帳には、踊った相手としてクリムト自身が名前を書いています。さらに矢に射抜かれた心臓の絵を描いて、古代ギリシャの詩人アナクレオンが書いた恋の詩を添えています。
この手帳、素敵ですね。そういえば「舞踏会の手帖」という古いフランス映画がありますね。夫を亡くした女性が、はじめての舞踏会で踊った男性たちを一人一人訪ねていくお話です。この手帳を見ているうちに、あの映画をもう一度観たくなりました。

華麗なる「黄金様式」の時代
1897年、35歳のクリムトは若手芸術家たちとともに「ウィーン造形芸術家協会」を脱会し、「ウィーン分離派」(SECESSION)を結成して初代会長になります。当時はフランスの印象派をはじめ、ヨーロッパ各地で国立の美術学校や官展の保守性や権威に反発し、自分たちで自主的な展覧会を開く運動が起きていました。「ウィーン分離派」も牢固とした芸術組織から「分離」独立し、自分たちの表現を目指しました。
クリムト自身も、印象派をはじめ中世キリスト教美術、象徴主義、日本や中国・朝鮮の芸術などからさまざまな要素を取り込み、作風を大きく変えます。1901年から約10年間は「黄金様式」と呼ばれる時代で、金箔をふんだんに使い、背景を文様などで埋め尽くした華麗な絵画を発表しました。
今回の展覧会には、金箔が初めて使われた「ユディトⅠ」が出品されています。ユダヤの町に住むユディトが敵の司令官を誘惑し、酔いつぶれた隙に首を切り落としたという旧約聖書の外典にある話がこの絵のモチーフです。司令官の首は画面の右下に半分しか描かれてなくて、まるで添え物のようです。胸元をあらわにして恍惚の表情を浮かべるユディトは、本来の物語から独立して官能的です。

1901年 油彩、カンヴァス 84×42cm
ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 © Belvedere, Vienna, Photo: Johannes Stoll
衣装や宝飾への強い関心
「黄金様式」以降の女性たちは衣装がゴージャスですね。宝飾品も多彩だし、女性の服飾に対するクリムトの関心の強さを感じます。女性の髪型がまた大胆で独創的(笑)。近所に買い物に行けないような髪型です。ユディトの衣装は肩が張っていて、日本の肩衣、つまり、かみしもの上衣のように見えるのですが、考えすぎでしょうか。
壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の世界に包まれる
ウィーン分離派は結成翌年の1898年、第2回分離派展に合わせてウィーン市内に活動拠点の「分離派会館」を建設し、入り口に「時代にはその時代にふさわしい芸術を、芸術には自由を」という言葉を掲げました。
クリムトは1902年の第14回分離派展で、会館内のホールの三方の壁に全長34mの壁画「ベートーヴェン・フリーズ」(1901~02年)を制作します。ベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフに、黄金の騎士である芸術家が敵対する力に勝利をおさめ、歓喜に満ちた楽園に至る旅を表現しています。フリーズとは西洋建築を装飾する水平の帯のこと。今回は本物の代わりとして1984年制作の精巧な原寸大複製が展示され、壁画に取り囲まれた空間を疑似体験することができます。

第二の壁「敵対する力」には悪の化身テュフォンが大きく描かれています。悪と言いながら愛嬌たっぷりで、あまり怖くありません。アメリカの絵本画家モーリス・センダック(1928~2012年)の『かいじゅうたちのいるところ』の怪獣にちょっと似ていませんか。
テュフォンを取り巻くのは淫欲や不節制を象徴する妖艶な女性たち。装飾品には本物の真珠貝や貴石が使われ、角度を変えて見上げるとキラキラ光って見えます。

黄金の騎士が最後に至る楽園の場面は、天使たちが晴れやかに合唱する「喜びの歌」が響いてくるような幸福感がありますね。「喜びの歌」の詩を書いたシラー(1759~1805年)はクリムトより100年ほど前に生まれた詩人です。日本では明治期に「シルレル」「シルラー」の名前で紹介され、森鴎外の「舞姫」にもシルレルの名前が出てきます。太宰治の「走れメロス」にも出典として「古伝説と、シルレルの詩から」と記されていますね。わたしが好きな辻征夫さんの「月光」という詩には、ライバルのゲーテの存在に悩まされるシラーが登場します。
「ウィーン分離派」がめざしたものは、絵画だけの世界ではなく、彫刻、文学、音楽、建築などと一体になった「総合芸術」でした。「ベートーヴェン・フリーズ」はまさにそれを体現した作品と言えるでしょう。何だかウィーンにいって本物を見たくなってきました。

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)
1984年(原寸大複製/オリジナルは1901-02年) 216×3438㎝
ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 © Belvedere, Vienna
不思議な「ゆりかご」の絵
1873年にウィーン万国博覧会が開かれ、日本は初めて公式参加しました。美術工芸品や日用品などが数多く展示され、日本庭園や茶室まで作られています。エキゾチックな文化はその後の日本ブームを呼び、ウィーンの芸術家も大きな刺激を受けますが、クリムトもその一人でした。版画や書籍、武具などを収集し、作品にも浮世絵版画からの影響を思わせる構図や文様が登場します。
会場では、ウィーンの美術館が所蔵する印籠など日本の工芸品や書籍とともに、クリムトと日本美術との関係をうかがわせる作品を紹介しています。「女ともだちⅠ(姉妹たち)」もその一つで、極端に縦長の画面に2人の女性が顔を寄せ合うように立っています。画面の大部分を2人の黒い衣装が占める大胆な構図で、画面左下には日本の着物を思わせる市松模様も描かれています。
不思議な絵だなと思ったのは「赤子(ゆりかご)」。色とりどりの布が積み重なって山をなしていますが、三角形の頂点に赤ちゃんの顔があり、右手がのぞいています。何とも変わった構図ですね。図録の解説によると、日本の多色摺り木版画(錦絵)から着想を得て描いたものらしく、布には日本の着物に描かれたような人の顔や文様が見られます。そういえば子どもの頃祖母の家のタンスや押入れを開けると、こういう色合いの布がたくさんありました。
独身を通しながらも多くの非嫡出子がいたクリムトですが、この「赤子(ゆりかご)」の絵や、生後3カ月足らずで亡くなった息子の死に顔を描いた「亡き息子オットー・ツィンマーマンの肖像」(1902年 チョーク、紙)を見ていると、わが子に対する愛情がなかったわけではなさそうです。

1917年 油彩、カンヴァス 110.9×110.4cm
ワシントン・ナショナル・ギャラリー
National Gallery of Art, Washington, Gift of Otto and Franciska Kallir with the help of the Carol and Edwin Gaines Fullinwider Fund, 1978.41.1
見飽きることのない「女の三世代」
今回のクリムト展の大きな話題は、イタリア政府が1911年に購入し、ローマ国立近代美術館が所蔵する大作「女の三世代」が日本で初めて展示されたことです。
一枚の絵に幼年期、青年期、老齢期の3人の女性を描くのは西洋絵画の伝統的主題で、時の流れの速さや老いの残酷さ、無常を表現しています。しかしクリムトの作品は異質で、左の老いた女性がいなければ聖母子像、つまりキリストとマリアを描いているようにすら見えます。
母親は慈しむように子どもを抱き、2人の足はへその緒ならぬ薄い布のようなもので結ばれてきずなの強さを示すかのようです。この上なく幸せそうな2人に対して、左側の女性は悲しんでいます。自分の老いを嘆くというより、子どもを失うなど、痛ましい体験や境遇に打ちのめされているようです。クリムト自身の悲しみも投影されているのでしょうか。
背景が明確に分割され、少し離れた位置から見ると日本の着物を広げたようでもあります。左右の背景は砂時計の砂が落ちるようでもあり、時間の流れを感じさせます。どんな人にも、生涯のうちには、幸福な時代と不幸な時代の両方がある。そんなことを思いながらいつまでも眺めていたくなる一枚です。

1905年 油彩、カンヴァス 171×171cm
ローマ国立近代美術館
Roma, Galleria Nazionale d’Arte Moderna e Contemporanea. Su concessione del Ministero per i Beni e le Attività Culturali
女性像の一方で風景画も
クリムトが風景画をたくさん描いていたのは意外でした。女性を描いた絵では画中の人の強いまなざしがありますが、風景画にはそれがないのでほっとします。「アッター湖畔のカンマー城III」は、ほぼ正方形のカンヴァスに描かれています。水と緑の部分が多いですね。平面的なせいか、距離感がよくつかめません。寛いだ気分でぼんやり眺めるのによさそうな絵です。風景画のコーナーには牛の絵もあります。クリムトが牛を描いていたなんて、これも意外でした。

1909/10年 油彩、カンヴァス 110×110cm
ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 © Belvedere, Vienna, Photo: Johannes Stoll
「ウィーン・モダン」展と併せて観るのがおすすめ
今回のクリムト展では、修行時代の作品や風景画など、「黄金様式」とは違って今まであまり知らなかったクリムトの作品に触れることができました。
なお、国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展(8月5日まで。8月27日~12月8日、大阪の国立国際美術館に巡回)には、クリムトの初期作品「旧ブルク劇場の観客席」(1888 年)や、「パラス・アテナ」(1898年)、「エミーリエ・フレーゲの肖像」(1902年)などの代表的な油彩画、30点あまりの素描など計47点が出品されています。こちらも見応え十分です。とりわけ等身大の「エミーリエ・フレーゲの肖像」に圧倒されました。クリムトが愛用していた青いスモックが展示されているのもいいですね。クリムトの体温が伝わってくるようです。
「ウィーン・モダン」展では18世紀のマリア・テレジアの時代まで遡り、ウィーンの世紀末文化が生まれるまでの近代化の過程を美術、工芸、ファッション、建築などの面から紹介しています。「クリムト展」と併せて見れば、クリムトの世界とそれを生み出した文化的背景をより深く理解できます。クリムトの影響を受けたエゴン・シーレ(1890~1918年)、オスカー・ココシュカ(1886~1980年)の作品もたっぷり楽しめますよ。
(聞き手 読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)