「ラファエロ」と「前派」に迫る 【イチローズ・アート・バー】 第14回 「ラファエル前派の軌跡」展

東京・ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局の陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。
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ラファエル前派を中心に19世紀のイギリス美術の潮流をたどる「ラファエル前派の軌跡」展が、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開かれている。保守的なアカデミーに反旗を翻した同派のミレイ、ロセッティ、ハントや風景画家ターナーらの絵画、彼らを理論的に擁護した批評家ラスキンが描いた素描・水彩に、ステンドグラス、タペストリー(つづれ織り)、家具などを加えた約150点が展示されている。
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「ラファエル前派」という名はユニークだ。印象派、ロマン派などは耳にすぐなじむが、「ラファエル」という聞きなれない人名に加え「前」という「ただし書き」が意表をつく。
展覧会の図録監修を務めた一橋大学名誉教授の河村錠一郎さんが、本展に合わせ、3月15日、東京・丸の内で「ラファエル前派の衝撃、ロンドンから東京へ」と題した講演会を開き、その中で、ラファエル前派の舞台裏に触れた。講演で紹介された事実をベースにラファエル前派に迫ってみたい。
なぜ「ラファエル」なのか?
まず「ラファエル」とは誰だろうか?
イタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロを連想する向きが多いだろう。実は、正解である。
では、なぜラファエルなのか。河村さんによれば、背景には明治時代の翻訳の問題があるという。
ラファエロのイタリア語のアルファベット表記は、Raffaello。イタリア語の原音は、日本語に置き換えれば「ラファエッロ」に近いが、現在では、それを一般的に「ラファエロ」と表記する。
明治時代には、西洋美術の情報は当該の国からではなく、概して英語を通じて伝えられた。「ラファエロ」も英語で日本に入ってきた。
英語の綴りはRaphaelで、発音は「ラフィール」か「ラフェイエル」。この英語の発音に準ずれば「ラフィール」、「ラフェール」あたりになりそうなところだ。しかし、当時は原音に触れる機会がほとんどなく、聞いていても日本語表記に変換するのは難しかったようだ。2年間ロンドンに留学していた文豪・夏目漱石でさえ、帰国後に著した「坊ちゃん」の中で、「ラフハエル」と苦心の「翻訳」をしている。
この例が示すように、当時は原音に基づいて日本語表記を定めるのは困難を伴ったため、外国人名はローマ字読みで読むのが一般的な手法となった。Raphaelの日本語名は、こうしてひとまず「ラファエル」として落ち着いた。
これは、河村さんが半世紀ほど前、研究滞在中の米ハーバード大学で、ルネサンス研究の権威が発した「ラフィール」という発音に接した時の経験談を交えながら行った解説だ。
ラファエルからラファエロへ
新聞ではどう表記されたのか?
興味の赴くままに調べてみると、読売新聞では明治末に「ラファエル」でスタートしたようだ。
「ラファエル」で検索をかけると、初出は1907年(明治40年)の12月25日の「クリスマス名画『耶蘇及びマリヤ』=ラファエル筆」。大正から昭和時代の戦前・戦中にかけてもラファエルが主流で、1928年(昭和3年)「6月12日「ラファエルの『マドンナ』が200万円」。1943年7月21日のメキシコからの海外短信「物置からラファエルの名画」とある。
一方、この間にも「ラファエロ」が皆無だったわけではない。大正中期に書籍広告で「ラファエロ」が顔を出している。ラファエロが定着したのは戦後のようである。「ラファエルロ」「ラファエッロ」という表記も時に見られたが、戦後イタリア語の原音に基づいて「ラファエロ」に軌道修正されたとみられる。
取り残された?「ラファエル前派」
では、「ラファエル前派」という表記は、いつごろから使われたのだろうか。
これも読売新聞の検索で調べてみると、1910年(明治43年)9月10日のラファエル前派のホルマン・ハントの訃報記事の中で、「ラファエル前派」として紹介されているのが初出のようである。
興味深いことに、ラファエルがラファエロになった戦後になっても、ラファエル前派という表記は、そのまま残った。1970年代以降になると、彼らの展覧会が頻繁に催されるようになり、その多くが「ラファエル前派」として紹介された。「ラファエロ前派展」という展覧会もいくつか見られたが、最終的には「ラファエル前派」が、広く使われるようになったようである。
若者はなぜ「ラファエル以前」を目指したのか?
では、そのラファエル前派とは、どんなグループなのだろうか。文字通りにとれば、「ラファエロの前に戻る」、ということであるが、なぜ彼らがそれを旗印に掲げたのか、という背景をここからは、解いていきたい。
アカデミーへの反抗
ラファエル前派は、「ラファエル前派同盟」として、1848年秋にイギリスで7人で結成された。中心メンバーのダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(当時20歳)、ハント(同21歳)、ジョン・エヴァレット・ミレイ(同19歳)らはイギリスの芸大ともいうべきロイヤル・アカデミー美術学校の学生だった。彼らは、ラファエロら過去の巨匠の描き方を至上とする美術学校の方針に反発した。

ラスキン、ジョットらの影響
河村さんによれば、彼らが目指すものは、ターナーを擁護し中世美術を賛美した気鋭の批評家ジョン・ラスキン(1819~1900年)の著書「現代画家論」(第1巻1843年、第2巻1846年)の中にあったという。
ハントは、この書物の中に、「true to nature (自然に忠実に)」という言葉を見出した。巨匠の模倣ではなく、自らの目で自然を捉え描く、という考え方に、ハントも、そして仲間も引きつけられた。

このころ彼らは、13-14世紀のイタリアの画家ジオットら初期ルネサンスの作品に(版画を通して)触れ、因習にとらわれず、自由で素朴な描写に感銘を受けていた。
このような「真の美とは何か」についての発見や覚醒の中で、自分たちが求める美の世界を、ラファエロやダ・ヴィンチに代表される盛期ルネサンスより前の時代に見出したようである。
詩人キーツの書簡
ここでもう一つの疑問が浮上する。
なぜダ・ヴィンチ前派、あるいはミケランジェロ前派ではなく、ラファエロの名前をグループ名に取り込んだのだろうか。
河村さんは、ロセッティが弟に送った手紙に手がかりがあることを示唆する。グループ結成の2ヵ月ほど前、ロンドンで出版された「キーツ 詩と書簡集」に触れたエピソードである。ジョン・キーツは1821年に結核で夭折したロマン派の詩人で、当時、多くの若者を魅了していた。ロセッティは、出版されたばかりのこの本を買い求め、その本の中にキーツが「ラファエロより前の時代の画家に惹かれる」、と述べた書簡の一節を見つけた。そして、ロセッティは、弟に送った手紙の中で、「キーツは素晴らしい人だ。ラファエロよりもそれ以前の人たちのほうが優れているという結論に達したと書いている」とその興奮を伝えたという。
ロセッティを通じて仲間の脳裏に「ラファエロより前の時代の画家」という言葉が刻印された可能性は小さくなさそうだ。
傑作?「ラファエル前派」
ラファエル前派は、「ラファエル以前」を目指すということでありラファエロ自身は目標ではない、というニュアンスを含むが、メンバーたちは、ラファエロは否定するどころか敬愛していたという。アカデミーの因習への反感を表現するために、「ラファエロより前」を目標としつつ、同時に、憧憬するラファエロの名をグループ名に取り込んだようである。ここにも「ラファエル前派」を名乗る理由があるのだろう。
一方、ラファエル前派の画家たちの作品は、ラスキンが称えた中世の素朴な美や敬虔な信仰心に必ずしも忠実ではなかった。たとえばロセッティが、後に描いた官能的な女性像は、ラスキンの美意識とは相いれず、両者の関係は決裂する。
ラファエル前派の芸術は、やがてロセッティを中心に装飾的、幻想的な性格を強め、ヨーロッパの象徴主義に影響を及ぼし、他方では手仕事を尊重した美術運動、「アーツ・アンド・クラフツ運動」とも結び付いた。そして90年代にはエドワード・バーン=ジョーンズ(1833-98年)とフレデリック・レイトン(1830-96年)が爵位を授与されるなど、公的な栄誉に浴する。
「ラファエル前派」という名前は、メンバーがラファエロを敬愛していた点でも、作風の点でも、グループの実態を厳密に反映したものではなかったことになる。だが、アカデミー批判に発しながら、それにとどまらない存在感を持ちえたのは、メンバーの作品の芸術的魅力ばかりではなく、誰をも振り向かせるラファエロという名をとりこんだ、このグループ名に負うところもあったと思われる。
矛盾をはらむとはいえ、二十歳前後の若者らしい野心、熱情の結果生まれた名前であり、美術史上のネーミングの傑作のひとつといえるかもしれない。
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展覧会の概要
ラファエル前派同盟は、当初「過去の芸術の技法だけを無造作に模倣しているだけ」などと批判されたが、ラスキンの擁護もあり、支持を広げる。画風は一様ではなく、創立メンバーの内、ミレイ、ハントらは独特のリアリズムを追求し、ロセッティは幻想的な装飾性に傾いていった。
50年代末になると、ラスキンやロセッティを慕うバーン=ジョーンズ、ウィリアム・モリス(1834-96年)を中心に、ラファエル前派の新しい世代が形成される。バーン=ジョーンズは中世的な主題を情感豊かに描き、モリスはラスキンとともに、アーツ・アンド・クラフツ運動を主導した。
ターナーからラファエル前派、アーツ・アンド・クラフツ運動に至る、英ヴィクトリア朝の美術の流れをたどる本展は、以下の5章で構成されている。
1 ターナーとラスキン
J.M.W.ターナー(1775~1851年)はイギリスを代表する風景画家。1840年にターナーの作品と出会ったラスキン(当時21歳)は、その魅力に取りつかれ、当時、批判もあったターナーの作品を批評家として擁護した。ターナーの作品とともに、ラスキン自身が描いた水彩、素描が紹介されている。ラスキンの芸術観を作品を通して体感できる貴重な機会だ。

2 ラファエル前派同盟
1848年結成された「ラファエル前派同盟」は、当初、批判をあびたが、ラスキンが「タイムズ」紙で擁護論を展開し、認められ、イギリス美術界での存在感を増していく。この章では、ミレイ、ロセッティ、ハントの3人を中心に、ラファエル前派の作品を紹介する。

3 ラファエル前派周縁
ラファエル前派の影響はグループ外の画家たちにも及んだ。緻密な観察というラファエル前派の基本原理に基づきつつ、古代ギリシャ・ローマの理想的美術の復興を試みたり、物語を描写するのではなく形や色彩や質感などによって「芸術のための芸術」を追求したりするなど、多様な展開が見られた。

4 エドワード・バーン=ジョーンズ
ラスキンやロセッティに多くを学んだバーン=ジョーンズは、60年代に独特の人物像で注目されるようになる。聖書、神話、文学を主な主題とした、油彩、水彩、素描から挿絵、陶磁器、ステンドグラスのデザインに至る様々な作品を紹介する。

5 ウイリアム・モリスと装飾芸術
ラスキンとウィリアム・モリスは、産業化が進む中で、アーツ・アンド・クラフツ運動を主導し、手作りの日用品づくりを推進した。モリスを中心に作られた、ぬくもりのある家具、ステンドグラス、壁紙などが展示されている。

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