企業城下町の駅前から始まる文化 【きよみのつぶやき】第12回 太田市美術館・図書館「生誕100年 飯塚小玕齋展」

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

太田の美術vol.2「生誕100年 飯塚小玕齋展―絵画から竹工芸の道へ―」

群馬県 太田市美術館・図書館

2019年2月2日(土)~4月7日(日)

※巡回予定はありません。

太田市美術館・図書館。1階にはカフェやテラスがあり、屋上は登ることができる

SUBARUの企業城下町

群馬県の「太田市美術館・図書館」が4月で開館2周年を迎える。
私はこの間に4回訪れ、東京で顔を合わせる美術関係者に「東武鉄道の浅草駅から特急で1時間半の近さですよ」と一度訪れることを薦めてきた。

太田駅に着いて北口を出ると、駅前通りの先にその名も「スバル町」が広がり、自動車メーカー「SUBARU」(スバル)の高い建物がある。同社の歴史は「飛行機王」の中島知久平が1917年、尾島町(現・太田市)に創設した飛行機研究所にさかのぼる。軍用機の開発・製造で知られた航空機メーカー「中島飛行機」の流れをくむ関係6社が、敗戦後に再結集して富士重工業(現SUBARU)となった。
今日でもSUBARU群馬製作所本工場が置かれ、太田市は企業城下町の顔を持つ。ちなみに本工場の門前には、名車「レガシィ」をかたどった「スバル最中」を売る和菓子店もある。

まずは建物を眺めてから

いきなり話が脱線したが、太田駅北口を出てすぐ左手に「太田市美術館・図書館」が見える。徒歩10秒の近さだが、私は中に入る前にいつも少し離れた場所まで行き、建物全体を眺めることにしている。人が自然に集まり、静かな活気につつまれている気配が心地よく感じられるからだ。

真っ白な建物の1階はガラス張りで、カフェやショップ、テラスに人影が見える。駅から出てきた若い女性たちが、慣れた足取りで建物の外階段を登っていく。3階建ての建物の屋上は木を植えた丘になっており、友達同士でおしゃべりでもするのだろう。

空間を共有する

建物の中に入っても、その開放感は変わらない。
展示室や視聴覚ホールなど5つの部屋をゆるやかなスロープが結び、建物の真ん中には螺旋(らせん)階段がある。完全に閉じた部屋はなく、視線が建物の中を抜けていくように設計されているから、来館者は本を読んだり、絵を見たり、カフェでくつろいだりしながらも、お互いの存在を視野に入れている。しかし煩わしさはなく、むしろ時間と空間を共有しているという親しみや安心感を覚える。

建物を設計した平田晃久さん(京都大学准教授)は1971年生まれ。世界的な建築家・伊東豊雄さんの設計事務所にいた時から注目された気鋭の建築家だ。さまざまな「もの」や「こと」が絡まる場所を意味する「からまりしろ」という言葉を使って、人々が集まる「依り代(よりしろ)」のような建築を提案してきたが、大規模な公共建築の設計はこれが初めて。たまたま私が群馬県に赴任している間に建設され、まだ更地だった状態から見てきただけに、建築家が作り出す「空間の力」を改めて感じさせられた。

建物の中央にある螺旋階段(2017年3月、グランドオープン前の内覧会で)

地域の文化を見つめる

太田市美術館・図書館では、気鋭の美術家を起用した現代美術のグループ展から、工芸、文学、地場産業まで、幅広いテーマを扱う展覧会が企画されている。
そこに一貫しているのは、地域の文化へのこまやかな視線だ。

たとえば昨年11月から今年1月にかけて、「ものづくりシリーズ」の第1弾と銘打った「愛(め)でるボタン展 〜アイリスのボタンづくり〜」を開いた。ボタン製造で日本一のシェアを持つ地元企業が運営する「ボタンの博物館」(東京・日本橋浜町)の世界的コレクションを展示。さらに群馬県在住の芥川賞作家・絲山秋子さん、太田市在住の写真家・吉江淳さんが同社の創業の地・太田市にあるボタン工場を訪れ、エッセイと写真でものづくりの魅力を紹介した。私は展覧会を見に行けなかったが、2人が作った『エッセイ&フォト ボタン工場をめぐる』という小冊子がほしくなり、通信販売で買い求めた。

美術館と図書館の複合施設ならではの企画展として、「本と美術の展覧会」もこれまでに2回開いている。私が見に行った第2弾「ことばをながめる、ことばとあるく——詩と歌のある風景」展は、気鋭の詩人・最果(さいはて)タヒさんの詩句をグラフィックデザイナーたちがさまざまな形で展示する意欲的な試みで注目された。この展覧会の時も、地元出身の歌人である大槻三好・松枝夫妻の作品と栃木県在住のイラストレーター、惣田紗希さんが太田の風景をモチーフに描いた壁画を組み合わせた展示が印象に残った。

飯塚小玕齋《白錆花籃(しらさびはなかご) 銘  大海》  1987年 太田市蔵

竹工芸作家・飯塚小玕齋とは?

現在開かれている「生誕100年 飯塚小玕齋展―絵画から竹工芸の道へ―」は、「太田の美術vol.2」として企画された。昨年の第1弾で地元出身の洋画家・正田壤(じょう)(1928~2016年)を取り上げたのに続き、竹工芸作家の人間国宝・飯塚小玕齋(しょうかんさい)(1919~2004年)を紹介している。

小玕齋は1981年、生まれ育った東京から太田市に移り住み、亡くなるまで工房を構えた。
もともとは画家をめざして東京美術学校(現・東京芸大)に進んだが、家業の竹工芸を継ぐはずの兄が亡くなったため、やむなく画家の道をあきらめ、父・琅玕齋(ろうかんさい)のもとで竹工芸を学んだ。端正なたたずまいの中に現代的な感性を備えた作品は、今日の竹工芸に大きな影響を与えたという。

展覧会を担当した小金沢智学芸員によると、2000年6月、81歳の時に群馬県立近代美術館(高崎市)で38点の作品が展示されて以来、公立美術館で飯塚小玕齋の展覧会が開かれたのは19年ぶりのこと。約30点の作品で竹工芸作家としての活動を紹介するだけでなく、美術学校時代の油彩画とスケッチなどを展示し、画家をめざしていた時期にも重きを置いたのが大きな特色だ。

飯塚家から寄贈を受け、クリーニングなどを行って展示した卒業制作の「K嬢像」(1942年)を見ると、小玕齋、本名・成年(しげとし)が画学生時代、すでにかなりの画力を示していたことが分かる。彼と同級生だった画家・野見山暁治(ぎょうじ)さんに小金沢学芸員と小玕齋の長女・飯塚万里さん(琅玕洞主宰)が行ったインタビューが公式図録『飯塚小玕齋―絵画から竹工芸の道へ』(ART DIVER 本体価格1800円)に載っているが、「K嬢像」を目にした野見山さんに「うまいですね。こんなにうまかったのか」と言わしめているほどだ。

右:東京美術学校の卒業制作「K嬢像」 1942年 128.5×95cm カンヴァス、油彩 太田市美術館・図書館蔵

地元ゆかりの作家に光

小玕齋の油彩画で現存が確認されているのは、今も東京芸大の油画科が卒業制作の課題としている自画像(作品は東京芸大に収蔵される)と、この「K嬢像」の2点のみだという。戦地に赴いたり、転居を重ねたりする間も、「こんなに大きな作品をずっと持ち続けてきたところをみると、とても大事に思っていたのだろう」と小金沢学芸員は推測する。

画家の道を断念し、竹工芸の修行を始めた小玕齋は、1947年に日展初入選を果たす。50年代には装飾的、絵画的な屏風や衝立などを発表したが、74年に日展を脱会。日本伝統工芸展に発表の場を移した。
小金沢学芸員は公式図録の論文で、小玕齋の竹工芸が鑑賞されることを重視したものから、「用の美」と呼ばれる実用性を兼ね備えたものへと転換していった歩みをたどり、「工芸」と「美術」、「実用」と「鑑賞」の違いや共通性をどう考えるかという、今日でもなお続く問題を重ねている。画家としての資質と、心ならずも竹工芸家に転向した苦悩に注目することで、飯塚小玕齋という存在に新たな光を当てたと言えるだろう。

事業目的に「創造の遺伝子を顕在化させる」

太田市美術館・図書館のホームページには、基本理念として《「ものづくり」を通して育まれてきた太田市民の創造性を、これからの「まちづくり」に生かしていくための拠点となることを目指します》と書かれている。
また、事業目的は第一に「太田市ゆかりの美術品や工芸品、郷土の歴史に関する資料や近代産業関連資料などを収集し、その調査研究を推進することで、太田に蓄積されてきた創造の遺伝子の価値を顕在化させる」としている。

どこの美術館でも、設立理念や事業目的、コレクションの収蔵方針などを定めている。しかし、それをホームページなどに掲げ、市民や社会に向けて積極的に伝えようとする館は少ない。太田市美術館・図書館の姿勢は、「ものづくり」で発展してきた同市らしく具体的で、方向性が明快だ。
ただ、この基本理念に沿って活動を続けていくには、専門性の高いスタッフの充実と予算の継続が欠かせない。駅前の小さな建物から始まった文化発信を先細りさせることなく、ぜひ未来に向けて大きく育ててほしい。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

1~2階を結ぶスロープの壁には、群馬県前橋市出身の詩人・萩原朔太郎の代表作「竹」を掲げた

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