建築史家・五十嵐太郎 ×「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」展 【スペシャリスト 鑑賞の流儀】

「スペシャリスト 鑑賞の流儀」は、さまざまな分野の第一線で活躍するスペシャリストが話題の美術展を訪れ、一味違った切り口で美術の魅力を語ります。 

今回は建築史家・建築批評家の五十嵐太郎さんに、監修者として関わった埼玉県立近代美術館(さいたま市)の「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史」展の見どころを語っていただきました。

五十嵐太郎(いがらし・たろう)

建築史家・建築批評家。東北大学大学院工学研究科教授。1967年、パリ生まれ。1992年、東京大学大学院修士課程修了。第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督。最近の著書に『モダニズム崩壊後の建築 ―1968年以降の転回と思想』(青土社)、『ル・コルビュジエがめざしたもの ―近代建築の理論と展開』(同)など。ツイッター@taroigarashi

もうひとつの建築史

ウラジーミル・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」(1919~20年)から、まだわれわれの記憶に新しいザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JV(共同体)の「新国立競技場」まで、20世紀初頭から約100年の間に国内外で完成に至らなかった約40人の建築家・美術家の構想やアイデアを選び、図面・模型・資料で紹介した展覧会です。

サブタイトルに「もうひとつの建築史」とあるのは、次のような理由からです。
建築の歴史は、実際に建ったものを語るだけでは必ずしも完全ではありません。さまざまな事情によって実現しなかった建築のアイデアや空想の種のようなものが、のちの時代に建てられた建築に影響を与えています。つまり建てられなかったものも一緒に考えないと、建築史の全体像は浮かび上がってきません。

ソ連の建築家ヤーコフ・チェルニホフが、自分の描いたドローイングで建築の基本原理を説明した『建築ファンタジー 101のカラー・コンポジション、101の建築小図』 より 書籍 1933年

 

それに、たとえ建築が実現したとしても、建築家が最初に抱いていた構想通りになるとは限りません。立地条件や経済的事情、技術的な問題などによって、設計案はしばしば変更を余儀なくされます。それに対し、実現しなかったアイデアはむしろ最初のピュアな形のまま保存されているとも言えます。
また、展覧会のポスターやチラシのデザインをよく見ていただくと、「インポッシブル」の文字の上に抹消線が引かれています。それには「その建築は本当に建てることが不可能だったのか? 不可能にしたものは何だったのか?」と見る人に問いかける意味もあります。

影をひそめた大胆な構想力

もともと建築には、大胆な構想力で未来を提示することと、日常の非常にささやかなことにも気を使って考えていくという両輪の動きがあります。
東日本大震災以降の日本では、建築家が住民とワークショップなどを重ねながら人と人のつながりや仕組みを提案していく「コミュニティデザイン」などのように、丁寧でささやかな仕事に注目が集まるようになりました。その一方で、“炎上”するリスクを恐れ、保守化し、大胆な構想力が少し力を失っているのではないかと危惧しています。
今回の展覧会には、実現しなかった建築の数々によって、建築が本来持つ両輪の一方である「大胆な構想力」を社会に向けて提示する意味を考え、そのきっかけになってくれれば――という個人的な思いも込めました。

実現しなくても有名建築

ウラジーミル・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」は、1917年のロシア革命とその前後に起きた前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」を象徴するものでした。パリのエッフェル塔を100mしのぐ高さ400mで構想され、鉄製の二重らせんの内部で構造物が回転するというものです。地球の地軸と同じ角度の傾きを持つ記念塔は、革命直後の経済的、技術的な問題で実現しなかったにもかかわらず、20世紀の有名建築の一つとなりました。

今回の展示では、建築模型を作るのを得意とする建築家・野口直人さんの事務所が、かなりリアルな模型を制作してくれました。

ウラジーミル・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」(1919~20年)の模型
(制作:野口直人建築設計事務所)

 

20世紀初頭には、当時の前衛芸術運動とも連動した実験的な建築が世界各地で提案されました。建築よりもむしろ彫刻と呼ぶ方がふさわしい設計案もあります。それらはほとんど実現に至りませんでしたが、機能性や様式にとらわれない自由なデザインは、後世の建築家に大きな影響を与えています。また、曲線を多用した複雑な形であっても、コンピューターを使って設計し、施工技術も飛躍的に向上した今日から見れば、簡単に実現できるものも数多く含まれていました。

日本の「分離派建築」

「第3インターナショナル記念塔」と同じ時代、日本では1920年に結成された「分離派建築会」の若い建築家たちが芸術としての建築を掲げ、曲線を使う自由なデザインを次々に発表します。東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科を卒業した瀧澤真弓と、同期の石本喜久治、堀口捨己(すてみ)、山田守(日本武道館、京都タワービルを設計)らが結成したグループで、その試みは1910~20年代に美術・音楽・絵画・演劇・写真など多様なジャンルで起きた表現主義とも連動していました。
彼らはやがて逓信省(現・日本郵政)や建設会社に所属し、自分たちの建築を官庁や公共建築、商業ビルとして一部実現していきます。たとえば山田守の初期の代表作である「東京中央電信局」(1925年)は建物の外壁上部にアーチを連続させた独特のデザインで、全国各地に類似の建築を生みました。「分離派建築」の象徴とされています。

彫刻作品のような瀧澤眞弓「山の家」(1921年)の石膏模型(1986年制作)

 

川喜多煉七郎(れんしちろう)の「ウクライナ劇場国際設計競技応募案」は、1931年にウクライナで行われた国際コンペで4等入選した設計案です。これが日本人建築家による国際コンペ初入選で、当時の世界的潮流だったモダニズム(近代)建築を学んだ日本人建築家がすでに世界的な水準に達していたことを示す証左にもなっています。

川喜多煉七郎「ウクライナ劇場国際設計競技応募案」(1930年)300分の1模型(制作:諏佐遥也ZOUZOU MODEL)

「負ければ賊軍」の設計案

1923年の関東大震災で東京帝室博物館(現・東京国立博物館)はジョサイア・コンドル設計の本館などが大破しました。その新館建設のための設計コンペに応募した前川國男の設計案(1931年)は、落選にもかかわらず注目を集めました。

建築様式について「日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト」と定められていたのに対し、フランス留学で近代建築の父、ル・コルビジュエに学んだ前川は、東洋風の屋根ではなく最先端のインターナショナル・スタイルであった装飾性のないモダニズム建築をあえて提案します。
審査の結果、選ばれたのはコンクリートの建物に東洋風の瓦屋根を載せたいわゆる「帝冠様式」の設計案でした。渡辺仁の案を原案とし、宮内省内匠寮が実施設計を行った現在の東京国立博物館の本館です。しかし前川の落選案は話題を呼び、前川は「負ければ賊軍」という有名な一文を発表。モダニズム建築の「闘将」と見なされるようになります。

今回展示している模型と配置図は、前川國男の設計事務所出身でもある松隈洋・京都工芸繊維大学教授の監修のもと、同大学の学生5人が制作しました。前川の応募案は当時の建築雑誌に掲載された図版で知られていますが、図面自体は戦災で焼失しており、模型や配置図が作られたのは今回が初めてです。

前川國男「東京帝室博物館設計案」(1931年)の模型(監修:松隈洋、制作:京都工芸繊維大学松隈洋研究室学部3回生)と五十嵐さん

大阪万博「お祭り広場」に原型?

1960年前後から70年代に建築家たちが提案した建築には、重くて硬く、動かないものという建築のイメージを解体しようとする欲求が見られます。可変で、場所を自由に移動できる仮設的なもの、空気膜を使ったもの、自分の身体を使って作れるもの(セルフビルド)――。
フランスのヨナ・フリードマンが提唱した「可動建築/空中都市」や、イギリスのセドリック・プライスが構想した「ファン・パレス」は、用途に応じて空間や設備を組み換えるというもので、1970年の大阪万博で丹下健三さんとその門下の磯崎新さんが設計した「お祭り広場」と大屋根の原型になったとも言われています。

イギリスの前衛建築集団「アーキグラム」は1961~70年に刊行した同名の雑誌でファンタジックな建築を発表しました。「建築界のビートルズ」とも呼ばれた彼らの建築は、そもそも技術的な実現可能性を考えていません。しかし、そのグラフィックはメディアを通じて世界中に知られていきました。

1977年、パリに文化複合施設「ポンピドゥーセンター」(レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャース設計)が完成しました。エスカレーターや配管をむき出しにした斬新なデザインがパリ中心部に出現した時、我々がそれほど抵抗感を覚えず、むしろ親しみやすさすら感じたのは、その前に見ていたアーキグラムのデザインが“露払い役”を果たしたためではないかとも言われたほどです。

(参考写真)パリのポンピドゥーセンター。斜めの透明チューブはエスカレーター
(参考写真)ポンピドゥーセンターのカラフルに塗装された配管

磯崎新、安藤忠雄

現代日本を代表する建築家の磯崎新さんは、コンペ落選作などのアンビルト、つまり実現しなかった自分の建築作品をメディアを通して積極的に発信してきた方です。その名も『UNBUILT/反建築史』(2001年、TOTO出版)という本をかつて出版していますが、私はこの本の帯に次のような言葉を寄せました。
「現存する20世紀の建築がほとんど消滅したときの建築史家は、メディアだけが有力な資料となって、磯崎のアンビルトの中に21世紀の建築の胎動を発見するのではないか」

磯崎さんの「東京都新都庁舎計画」は東京都が1985~86年に行ったコンペの落選案です。実施要項では明らかに「超高層」の新庁舎を求めていたのに対し、磯崎さんは「低層案」を提出して論議を呼びました。
磯崎さんはこの新都庁舎の外観模型や、代表作の一つである群馬県立近代美術館の構造模型を木で製作しており、これまでの建築展にも展示されてきました。イタリア・ルネサンスの建築家ブルネレスキの建築作品も、木製の模型が今の時代まで残っています。おそらく現実に建てられた建物より、模型の方がむしろこの世に長く残ることが多いでしょう。磯崎さんは「アンビルト」の建築を、実現した建築と“等価”なものになる仕掛けを意図的に作ってきた建築家だと言えます。

左:磯崎新「東京都新都庁舎計画」(1986年)の模型
右:安藤忠雄「中之島プロジェクトⅡ-アーバンエッグ(計画案)」(1988年)

 

安藤忠雄さんは、建築家として独立した当初から自分がいつか実現させたいと考える公共建築の改修案や設計案を発表してきました。大阪市北区の中之島にある大阪市中央公会堂(1918年完成、国重要文化財)の再生案はその一つ。建物内部に巨大な卵型の構造体を作るという大胆なデザインです。安藤さんはその後、イタリア・ベネチアの旧税関倉庫を現代美術館に改修した「プンタ・デラ・ドガーナ」など、歴史的建造物の内部にコンクリートによる新たな空間を挿入することによって「再生」する仕事をいくつも手掛けています。その意味では大阪市中央公会堂の再生案を別の形で実現させたことになるでしょう。

美術家の想像力

本展は会場が美術館であることを考え、建築家だけでなく美術家が考えた建築も紹介しています。建築家の丹下健三と親しく、大阪万博の「お祭り広場」に「太陽の塔」を作った岡本太郎は、丹下と同じく東京を舞台にした都市計画構想「おばけ東京」(1957年)を発表しました。
美術家の荒川修作と、妻で詩人のマドリン・ギンズは「三鷹天命反転住宅」(2005年)などの建築も設計しています。展示室にはフランスの河に架ける橋として構想された「問われているプロセス/天命反転の橋」の長さ13mの模型(というか、このサイズになると一種の空間インスタレーション)を設置しました。


荒川修作+マドリン・ギンズ「問われているプロセス/天命反転の橋」(1973~89年)の展示風景
©2019 Estate of Madeline Gins. Reproduced with permission of the Estate of Madeline Gins.

 

東京・日本橋の頭上を走る首都高速道路を地下化する事業の概要について、国土交通省や東京都、首都高速道路会社などは昨年、大筋で合意しました。この問題は高速道路の高架を残すか、取り払うかの二項対立の議論になりがちですが、美術家の会田誠さんが思いついたのは日本橋と首都高の上にさらにもう一つ、木造の太鼓橋を架けてしまうことでした。
この「シン日本橋」(2018~19年)には建築家がとても提案できそうにない発想の飛躍があります。首都高を取り払ったとしても必ずしも世界中から人が見に来るとは思いませんが、首都高の上に太鼓橋を架けたらとんでもない反響が起きるでしょう。

実は会田さんが「シン日本橋」を思いつく何年も前に、彼が東京芸大の学生時代から知る後輩の画家・山口晃さんが首都高をまたぐ太鼓橋を描いた浮世絵「新東都名所 東海道中 日本橋 改」(2012年)を作っていました。美術家の想像力とはすごいものだと思います。

展覧会場の五十嵐太郎さん
右:会田誠「シン日本橋」(2018~19年)
左:山口晃「新東都名所 東海道中 日本橋 改」(2012年)

実現直前だったハディド案

今回の展示のハイライトは、ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JV(共同体)の「新国立競技場」設計案です。間違いなく、日本で実現しなかった最も有名な建築でしょう。
設計案をめぐって論議が起きた時、テレビのワイドショーがザハ・ハディドさんを「アンビルトの女王」とはやし立てたことに違和感を持ちました。彼女は1980年代に先鋭的な建築デザインで注目されますが、当初はなかなか実作に恵まれませんでした。しかしその後、新国立競技場の設計案でも特徴的だった流動的なフォルムがブレイクし、世界中で次々に巨大プロジェクトを実現させていたところでした。

本展の監修者である私は、美術館の学芸員たちで作る企画チームとともにザハ・ハディドの事務所と共同設計を行った日建設計本社を訪れ、膨大な図面の山と、風洞実験に使う模型などを見せてもらいました。具体的な設計にほとんど手が着けられていなかったと考える人も多いでしょうが、夢や空想ではなく、GOサインが出れば我々が実際に見るはずだった建築です。
展示室にはその膨大な設計書類と、風洞実験のために無数の小さな穴が開けられた模型を並べました。

この展覧会は2020年の東京オリンピック・パラリンピックの年まで新潟、広島、大阪の美術館を巡回します。首都・東京の風景が今とは違うものになっていた可能性を、皆さんとともに改めて考えるきっかけになればと思います。

ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JV(共同体)の「新国立競技場」設計案の展示風景

 

(聞き手 読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

 

◇開催概要 「インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史

2019年2月2日(土)~3月24日(日) 埼玉県立近代美術館(さいたま市)

【巡回予定】
新潟市美術館 2019年4月13日(土)~7月15日(月・祝)

広島市現代美術館 2019年9月18日(水)~12月8日(日)

国立国際美術館(大阪市) 2020年1月7日(火)~3月15日(日)

 

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