イサム・ノグチと長谷川三郎ー変わるものと変わらざるもの【イチローズ・アート・バー】第12回

東京、ニューヨークで展覧会企画に携わった読売新聞事業局・陶山(すやま)伊知郎の美術を巡るコラムです。

                               

アメリカの彫刻家・イサム・ノグチ(19041988年)と日本の画家・長谷川三郎(19061957年)という、20世紀に活躍した2人の芸術家に焦点を当てた展覧会「イサム・ノグチと長谷川三郎ー変わるものと変わらざるもの」が、横浜美術館で開かれている。2015年にニューヨークのイサム・ノグチ財団・庭園美術館から横浜美術館に提案があり、約4年がかりで実現した国際巡回展だ。

日本がまだ連合国軍の占領下にあった1950年、来日したノグチは長谷川と出会い、「古い東洋と新しい西洋の統合」の重要性を確かめ合った。二人はそれぞれ、思索を深め、新たな制作を展開する。展覧会ではこの1950年代の作品を中心に、二人の作品計127点を展示している。横浜展のあと、アメリカに巡回する。

2019年112日(土)~324日(日) 横浜美術館 (横浜市みなとみらい)

2019年51日(水)~ 7 14日(日)     ニューヨーク・イサム・ノグチ財団・庭園美術館

2019年927日(金) ~ 128日(日)  サンフランシスコ・アジア美術館

 

ニューヨークで注目を浴びた長谷川

1954年3月、ニューヨークのリバーサイド美術館で「アメリカ抽象美術展」が開かれた。その中に、主催のアメリカ抽象美術家協会から招待を受けた画家・長谷川三郎の「蝶の軌跡」(1937年)があったことを知っている人はそう多くない。1930年代に日本の前衛美術の旗手のひとりとして、抽象絵画に取り組んだ長谷川は、理論家としても評価されていた。作品は、色と線が自己主張し合いながら、統一感も追い求めているような実験作で、日本の純粋抽象美術の草創期の代表作とされる。

 

 

横浜美術館で展示中の長谷川三郎「蝶の軌跡」(左)

 

会期中、長谷川は、ニューヨーク近代美術館で開かれたシンポジウム「現代世界におけるアブストラクトアート(抽象芸術)」に同美術館の初代館長アルフレッド・バーや、抽象表現主義の代表的な作家フランツ・クラインらとともに登壇し、講演をした。「戦後」がまだ終わっていないこの時期、世界の現代美術の最前線に日本人が招かれ、美術を語っていたのである。

  

イサム・ノグチとの出会い

長谷川が展覧会、シンポジウムに招待されたのは、クラインの力によるが、長谷川とクラインを結びつけたのは、日本人の父とアメリカ人の母をもつイサム・ノグチだった。

展覧会を遡ること約4年前の19505月、ノグチは約19年ぶりに来日。抽象的な彫刻の旗手として活躍していたノグチは、日本人の血を引くこともあって注目を集め、日本の美術界はノグチの来日に沸き立った。

 

イサム・ノグチ、1950年 撮影:三木淳  写真提供:イサム・ノグチ財団・庭園美術館(ニューヨーク)

 

この時、長谷川は、雑誌のインタビューでノグチと出会った。兵庫・芦屋育ちの長谷川は、洋画家・小出楢重に師事した後、東京帝国大学では美術史を専攻。雪舟をテーマに卒業論文を書き、卒業後に3年ほど、欧米で遊学した国際派だ。禅、茶、俳句、書など伝統文化にも造詣が深かった。

 

長谷川三郎、1956年頃 写真提供:学校法人甲南学園 長谷川三郎記念ギャラリー

 

二人とも、東洋の美意識と現代美術の交わるところに美術の未来がある、と考え、意気投合した。

 

伝統美を極める旅

長谷川はノグチの関西旅行の通訳兼案内を買って出る。伊勢神宮、法隆寺、桂離宮、龍安寺、妙心寺や、京都の茶室「待庵」などを訪れた。日本の代表的な美意識のひとつである「さび」には、「さびしさ」の意と、金属等の錆のような、物の古びた傷いた有様を愛惜する意味とがあり、その両者に共通の感じを指すのらしい、と長谷川が説明すると、ノグチは、会心の笑みを浮かべて聞きいったという。

 

クラインとの出会い

そして翌51年、日本を再訪したノグチは、長谷川にクラインの作品の写真を見せせた。クラインは、一見、書(カリグラフィー)を連想させるような抽象絵画を描いており、東洋にも関心を持っていた。この写真がきっかけとなり、長谷川は、クラインと手紙のやりとりを始め、互いに東洋の伝統と世界の現代美術の交わりを模索していることを確かめあった。長谷川は、書の雑誌「墨美」の創刊号の表紙に、クラインの作品を推し、実際に掲載された。クラインの存在は日本でも知られるようになった。

 

クラインの作品が使われた「墨美」創刊号(51年)の表紙

 

一方、クラインは、ニューヨークで長谷川の個展開催に動き始めた。最初の個展は531月、ニューヨークの画廊で実現した。そして、その翌年春、前述のリバーサイド美術館での「アメリカ抽象美術展」やニューヨーク近代美術館のシンポジウムへも招待されることになった。

 

長谷川の挑戦と、死による中断

長谷川は、ノグチとの出会い以降、新たなアプローチを試みる。かまぼこ板を彫り込んだ版木による作品を制作したり、木目を生かした拓本をとったりして、新たな創作に挑戦した。

54年に渡米した頃、「抽象美術の宝庫」と戦前に語った書が、作品に登場する。展覧会の日本側主催者・横浜美術館の主任学芸員、中村尚明さんは、「書の作品に着手するまで、長い時間をかけてきたことに、長谷川の真摯な姿勢と深い思索が表れているのではないか」と分析する。

図像に文字が添えられた「老子の肖像」(1954年)、文字が主役になった「Flower](1954年)、文字の群れが舞うかのような「蝶夢ー荘子より」(1956年)などが生まれた。文字が自由を得て飛び立つ気配があり、新しい境地が垣間見える。

 

「Flower」(左)

 

「蝶夢―荘子より」(左)と「老子の肖像」

しかし、長谷川は57年にサンフランシスコでがんのため客死してしまった。まだ働き盛りの50歳だった。

 

ノグチの飛躍

ノグチは、長谷川と出会った後、日本で発見したフォルム(形)をヒントに新しい彫刻やデザインを試みた。

長谷川の急逝後も、ノグチの制作は展開を続ける。金属板を加工した「雪舟」「オルフェウス」(ともに1958年)などは、折り紙にも似た幾何学的なフォルムだが、どこか思惟的で瞑想を誘うよう。

「オルフェウス」(左端)

 

長谷川が残したもの

長谷川は道半ばで倒れ、ノグチとの触発し合う関係、いわば競演も突然、中断されてしまった。

ノグチと長谷川の出会いは、二人に東洋と西洋についての思索を深めさせ、それぞれの飛躍を促した。ノグチは作品に昇華させたが、歩みを断ち切られた長谷川は、書を起点にした抽象美術の創造、という夢は果たし切れずに終わった。

グローバル時代と呼ばれる現在、ローカルな(地方に固有な)ものにグローバル(世界的)な価値を見出そうとする流れがある。国際的な発言、発信の重要性も増している。ノグチは西洋を基盤に東洋文化を取り入れ、世界的な彫刻家と呼ばれるまでになったが、一方、長谷川のように東洋的美意識から西洋文化への交わりを問う姿勢が、あらためて求められているとも言える。

長谷川の描いたグローバルな夢は、今なお古びることなく、これからの世代に託されている、といえるかもしれない。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

 

 

 

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