【壺屋めりの展覧会ちょっと深読み】第3回 「ルーベンス展」の巻

名画や名品の魅力は、背景にある社会的慣習や芸術家の人間模様などを知ると一層高まります。

芸術家の駆け引きや失敗談などを紹介した「ルネサンスの世渡り術」(芸術新聞社)などの著書がある、気鋭の美術史家、東京芸術大学客員研究員の壺屋めりさんに、美術品誕生の舞台裏やエピソードなどを「展覧会ちょっと深読み」と題して紹介していただきます。

 

ルーベンス展 バロックの誕生

2018年10月16日〜2019年1月20日  東京・国立西洋美術館

 

1016日に始まった上野・国立西洋美術館の「ルーベンス展――バロックの誕生」も、会期残り半月を切りました。展覧会スタートからもう2ヶ月以上経ちますから、ご覧になった方も多いかもしれませんね。西洋美術館の前を通ると、「王の画家にして、画家の王」というめちゃくちゃカッコいいコピーが目に入ります。

先日調べてはじめて知ったのですが、この「王の画家にして、画家の王」という二つ名は、ルーベンスを称して使ったことばだそうです。ルーベンスの大ファンであったイギリスの外交官、ダドリー・カールトン卿が画家に宛てた手紙に由来するとのことで、ヨーロッパじゅうで名声を博したルーベンスの活躍ぶりに加え、カールトン卿の口の達者さまでもがうかがわれます。

たしかにルーベンスは、こんな大仰な二つ名にふさわしいスーパー大画家でした。アントウェルペン(現ベルギー・アントワープ)に大工房を構え、スペイン、フランス、イングランドなどのヨーロッパ各国の君主のために作品を制作しました。画家としての国際的な名声を獲得するとともに、スペインの外交官としてイングランドを訪れ、両国間の和平交渉にも尽力しました。画家として、そして外交官としてのこうした目覚ましい活躍から、スペインとイングランドでは騎士にも叙任されているほどです。

展覧会の中でも、同時代人のことばがフィーチャーされています。ずばり、第6章のタイトル、「絵筆の熱狂furia del pennello」です。ルーベンスの絵画についてこのフレーズを書き記したのは、17世紀イタリアの著述家ジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ。この人物は『近代美術家列伝』(1672年)という書物を残していて(この「近代」は当時の近代なので、17世紀のことです)、その中にルーベンスの伝記が含まれているのです。このフレーズが出てくる箇所では、以下のようなことが書かれています。

 「まさに構想の豊かさにこのうえない素早さと絵筆の熱狂が結びついているために、ルーベンスの手になる作品はフランドルやその他の地域の教会等、さまざまな場所を満たすほどに膨大な数にのぼった。」

 

 

 

ここで言う「絵筆の熱狂」とは、「素早さ」と並んで書かれているように、端的に言ってしまえば絵筆の動きが速い、筆さばきが闊達であるということです。でも、17世紀にこの文章を読んでいた人は、おそらくここに絵筆の速さ以上の意味を読み取ったはず。というのも、「熱狂」をあらわす単語furiaは、当時の文学や美術の批評において特殊な意味を含んでいたからです。

ルネサンスからバロックにかけて詩や絵画に精通した著述家たちは、芸術家や詩人に創作をうながす詩的霊感・詩的狂気を指して、「熱狂furia」という語をよく使っています。突如降りてきた霊感に突き動かされるように、言い換えれば、ビビッと来たときに思い切りよく描くということが、よい絵画の描き方だと思われていたのです。

イタリア・ルネサンスの絵画における優れた画家の作品の制作とは、「丁寧」かつ「素早い」もの。確かな技量に裏打ちされた仕事は、丁寧さもじゅうぶんキープしながら、制作スピードも速いものと考えられていたのですね。なので、絵を仕上げる速度も画家の技量を示すバロメーターとなりました。

逆に、過剰な入念さは禁物。ちまちまと描き込みを続けていつまでたっても描き終わらない作品は、その努力の跡が見えてしまうので、「わざとらしい」として避けられました。つまり大事なのは、上手さを見せながらも努力の跡が見えないこと。「頑張った感」が前面に出てしまうのはNGなわけです。

ここで出てくるのが「熱狂furia」。ビビッと走った霊感に導かれて一気呵成に仕上げられた絵画こそ、過剰な入念さに陥らず、結果的にぎこちなさや無様さをまぬがれることができるのです。もちろんスピードが速いだけではだめで、上手いことが大前提。上手い絵を素早く描くのがミソですからね。

気を付けなくてはならないのは、このような考え方は主にイタリアの美術批評で尊重されたもので、オランダやフランドルの絵画には必ずしも当てはまらないということ。たとえば、15世紀フランドル絵画を代表する画家ヤン・ファン・エイクの作品は、むしろこまごまとした描写が魅力です。ミケランジェロはこのようなフランドル絵画を批判していますが、異なる価値基準をもっていたからなんですよね。ルーベンスは自身の画家としてのキャリアの初期に滞在したイタリアで、イタリア流の価値基準を身に着けたのでしょう。

こうした「わざとらしさ」を忌避し、「流暢さ」を重視する姿勢は、絵画の世界だけのものではなく、もともとは君主や宮廷に仕える人々の理想的なふるまい方に由来します。よき宮廷人は、そのあらゆる身振りにおいて、まるでなんの努力もしていないかのように見せることが推奨されたのです。自身も外交官であり、高貴な人々と渡り合わなくてはならなかったルーベンスにとって、この「流暢さ」を自在にあやつることは、仕事をうまく運ぶうえで非常に重要だったでしょう。

しかし、引用文は前後の流れを確認するのが大事。ここでルーベンスを称賛しているかのように見えるベッローリは、すぐ次の文でこう続けているのです。

 「それでも、良き素描の不足のために美しい自然の形式が欠けていたとルーベンスに異を唱えることはできよう。良き素描の不足のため、その改変に耐えられない彼のある種の天分のために、彼は頭部の雰囲気の魅力と、彼が自身の手法によって選択しなかった輪郭の優雅さからほど遠かった。〈中略〉彼はラファエッロと古代を非常に高く評価していたけれども、まったくと言っていいほど両方とも模倣しなかった。」

見てくださいこの突然の手のひら返し。ベッローリはルーベンスの彩色については認めていたようですが、それと同じくらい絵画にとって重要な要素、素描についてはご不満だった様子。イタリア流のよき絵画の作法を身に着けたルーベンスも、ベッローリに言わせればまだまだだったようです。厳しい!

「熱狂」ということばを通して、17世紀の人々がどのようにルーベンス作品を見ていたか、ちょっと垣間見ることができたのではないかと思います。残り僅かな会期ですが、これから、あるいはもう一度「ルーベンス展」に行こうかな? と思っている方は、ぜひ21世紀日本人としてだけでなく、17世紀イタリア人の目でもって作品を見てみてくださいね。

 

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