【イチローズ・アート・バー】第5回 雅号の響き~東山魁夷~

平成の過半を新聞社事業局の展覧会担当として過ごした陶山伊知郎による、美術展の隠し味談義です。

人気の「国民的画家」

東京では10年ぶりという東山魁夷(かいい)の回顧展が人気を集めていると聞き、足を運んでみた。昼前に美術館を訪れると、昭和世代と思しき人々を中心ににぎわっている。代表作「道」などの名作が並ぶ会場は、作品の静かな雰囲気とは対照的に、観客の熱気があふれていた。東山魁夷といえば「国民的画家」という形容が反射的に浮かぶが、それを十分に実感できる光景だった。

何がここまで人々を引きつけるのだろうか。

「道」 1950年 東京国立近代美術館蔵

「魁夷」という雅号

魁夷という名は、穏やかな名が多い近代日本画家の中で、異彩を放っているように見える。 「魁」が先駆け、「夷」は野蛮人、「野蛮人の先駆け」という意味になるからだ。

雅号を選んだのは東京美術学校(東京芸術大学の前身)を卒業して研究科に進んだ頃のこと。青年画家・東山新吉は、日本画家の名前が概してつまらない、と感じていたらしい。文字が醸し出す語感、音の響きもどこかとげとげしく、人々に受け入れられた東山の温雅な画風とは正反対に見える。私は長い間、軟弱なイメージを持たれぬよう、雅号で力強さを演出しようとしたのだと思っていた。

唐招提寺の障壁画

代表作、唐招提寺御影堂(みえいどう)の障壁画は、連作68面からなる大作中の大作だ。奈良時代に唐から万難を排して来日を果たした中国僧・鑑真の木像(国宝「鑑真和上坐像」)を安置する御影堂の襖絵、床の間の壁面のために約10年をかけて描かれた。

まず日本の海、山を描いた「濤声(とうせい)」と「山雲(さんうん)」を納め、続いて鑑真和上の故郷・揚州や中国の景勝地を描いた水墨画、「揚州薫風(ようしゅうくんぷう)」「黄山暁雲(こうざんぎょううん)」「桂林月宵(けいりんげっしょう)」を仕上げ、最後に厨子(ずし)のための「瑞光」を奉納した時、東山は73歳だった。

唐招提寺御影堂障壁画のうち、「濤声」(部分)    1975年、唐招提寺蔵

制作への強い意志

この作品の制作は、1970年(昭和45年)頃に唐招提寺からの依頼がきっかけで、東山は約1年の熟考の後に引き受けたとされる。一方、東山が制作を買ってでたとの新聞記事もある。寺側は当初「松の間」の厨子絵の描き手を探したが適当な画家が見つからず、一時中断。その話を伝え聞いた東山が「わたしが、やらせてもらおう。この寺に骨を埋めるつもりで後世に残る作品と取組んでみたい」と語ったという内容だ。いずれにせよ、東山の強い意思があったことは間違いない。

東山は構想を練るのに2、3年を費やし、73年に入ると日展以外の出品を断って、この仕事に専念した。日本の海と山を描くために、東北から山陰までの海辺を歩く。長野、岐阜、富山の山にも登った。75年に日本の情景を描き終えると、今度は中国に3度出向いて取材する。狭い石段しかない安徽(あんき)省の奇勝・黄山を踏破する。東山自身は「学生時代から体が弱くて」と述べたこともあるようだが、実際は東京美術学校1年の時にもテントを担いで御嶽山周辺をスケッチ旅行するなど活動的だった。厨子絵を完成させる81年まで、延々とこの仕事に打ち込んだ。

描かれた穏やかな風景の背後には、見かけによらぬ体力、行動力があり、それをささえる意思があったようだ。それに気づくと、私の中で、魁夷という名に、魂が宿り始めていた。

ドイツ留学の体験

東山の内に秘められる強い意志と行動力。この源泉はどこにあるのだろうか。話は戦前に遡る。1933年(昭和8年)、東京美術学校の研究科を修了した東山は、ドイツに渡った。ベルリンを拠点にヨーロッパ各地を旅行する一方で、ベルリン大学で美術史を学んだ。当地で見た19世紀ドイツ・ロマン派の画家、フリードリヒらの影響を受けたと言われる。フランス留学が断然主流だったこの時代に、あえてドイツを選び、そこで自らの基盤を築いた、ということになる。主体的な挑戦者、というイメージが浮かび上がってくる。

その時期は、ナチ台頭の激動の時代と重なる。ヒトラーは34年には国家元首として、名実ともにドイツの独裁者になった。

35年に帰国した日本でも、軍部が台頭し、37年には日中戦争に突入する。太平洋戦争末期には、東山自身も召集された。配属先の熊本では、銃も与えられず、爆弾を抱えて戦車に飛び込む、”玉砕”の訓練ばかりが行われたという。

後に「静けさは人にとって神聖なもの」「ただ狂人だけが騒ぐ」と語っている。けたたましさへの嫌悪感は、生来の穏やかな気質に加えて、ナチや軍国主義下の日本での政治的な喧騒と圧政も影響したに違いない。

東山は人を最期まで描かずに通した。こうした戦争の体験が影響をおよぼしたのだろうか。あるいは、作品を通じて、鑑賞者のまなざしと交わろうとしていたということだろうか。

戦後の旅立ち

47年、戦後3回目の日展で「残照」が特選に選ばれるが、それまでは画壇でも認められず、生活も苦しかった。終戦前後に両親と弟を相次いで失い、46年の日展では落選し、進駐軍相手に日本画を教えて生活費を捻出するような境遇だった。

実際、「経済的にもすっからかんで、どん底でした」と振り返っている。精神的な支えは、東京美術学校在学中に帝展(日展の前身)に入選したこと、ドイツから帰国した後、38年に東京・銀座の松坂屋で「東山魁夷氏滞欧スケッチ画展」なる「凱旋展」も開いたことなど、過去の実績。腕には自信があったはずだ。

戦争直後の「苦しさ」は、肉親を相次いで失った痛みと、画壇で巨匠候補への足がかりとされる特選受賞が遅い、という焦燥感の現れだったのだろう。特選をとった後は、画壇の頂点まで、順調に駆け上がることになる。

「残照」 1947年 東京国立近代美術館蔵

揺るがない覇気

その後、56年に48歳で芸術院賞を受賞し、57歳で芸術院会員。そして61歳の時に文化功労者に選ばれると同時に、文化勲章を受章。唐招提寺御影堂の障壁画は、十分に名を成し、功を遂げた後の作品だった。さらに驚くべきは、この大計画を終えた後、70歳代、80歳代とも作品への情熱に弛緩を感じさせないことだ。

90歳の作品「夕星(ゆうぼし)」は薄暗がりの湖と木々の上で輝く星を描いた、東山の絶筆である。東山が描き続けた画風は、手抜きや筆力の衰えを感じさせず、漲る力がある。人生90年の覇気だろう、と思った。

「夕星」 1999年 長野信濃美術館 東山魁夷館蔵

 

「魁夷」という生き方

一度、本人に会ったことがある。いや、正確に言えば会ったとは言えない。至近距離で目撃しただけである。昭和も終わり近い1980年代後半のある晩、東京・大手町のホールの、ヴァイオリンだったかピアノだったかのリサイタルだった。音楽好きの東山がゲストとして対談に臨み、その後、演奏を聴くために舞台端に下がり、パイプ椅子に文字通りちょこんと座って演奏に耳を傾けた。それが最前列にいた私の目の前だったのである。曲は東山の好きなモーツァルトなどだった。

私の関心は演奏より東山に向かうが、画家の視線は常に遠くにあり、親しみを感じさせつつも、ひとり異なる世界にいるような雰囲気をまとっていた。それは、最後まで、あのまなざしで、未踏の道を見定め、揺らぐことなく歩き切った人生の象徴だったと、今になって思い出す。

野蛮人のように荒々しく、先駆ける。それはまさに、「魁夷」という名前通りの生き方だったかもしれない。

 

◇ひとこと

昼前の会場は満員状態で、障壁画は列に並んで作品との対面を待ちました。

とはいえ、この混雑も午後のティータイム頃までとか。夕方は、作品をゆっくり鑑賞するチャンスもありそうです。

障壁画のコーナーで鑑賞される方々を眺めていたら、赤ちゃん連れの若いカップルが入って来ました。足を踏み入れるなり、お母さんが「すごい、すごい」と声をあげました。腕の中の赤ちゃんも、緑青、群青の海を無心に見つめています。一瞬笑ったように見えました。

頭の中で、「昭和の国民的画家」という言葉を思い浮かべていたのですが、あわてて「昭和」をとりました。国民的画家の称号は、平成、そして次の時代へも続きそうです。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

東山魁夷展   国立新美術館(東京・六本木)

2018年10月24日(水)〜12月3日(月)

 

情感にみちた静謐な風景画により、戦後を代表する国民的日本画家とうたわれてきた東山魁夷(1908-99年)の回顧展。横浜に生まれ、東京美術学校を卒業した東山は、昭和8年(1933年)にドイツに留学し、帰国後、画家として活動を続けるが、太平洋戦争末期には軍隊に召集され、終戦前後に肉親を相次いで失うなど、苦難の時代を過ごした。昭和22年(1947年)に日展で特選を受賞した「残照」がいわば出世作となり、巨匠としての道を歩み始めた。

本展は、唐招提寺御影堂の障壁画を含む代表作約70件によって、東山芸術の歩みを回顧する。唐招提寺御影堂は、平成27年(2015年)から始まった大修理により、今後数年間は現地でも拝観できない。再現された御影堂の空間において、LED照明で東山芸術を堪能できる、またとない機会だ。

 

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