【きよみのつぶやき】第4回 広島で「原爆の図」を見る(「丸木位里・俊 ―《原爆の図》をよむ」展)

ベテランアート記者・高野清見が、美術にまつわることをさまざまな切り口でつぶやくコラムです。

「丸木位里・俊 ―《原爆の図》をよむ」展 広島市現代美術館(広島市)

201898日(土)~1125日(日)

広島市現代美術館の展示室に並ぶ「原爆の図」(初期三部作)

 

15点もあった「原爆の図」

丸木夫妻の「原爆の図」を知っていますか? そう質問すると、多くの人が「教科書などで見たことがある」と答えるだろう。しかし「見た」ことはあっても、作品や夫妻についてどこまで「知って」いるかといえば、言葉に詰まる人が多いに違いない。実は、広島で育った私もその一人だった。

 

「原爆の図」といえば、広島出身の日本画家・丸木位里(いり)(190195年)と、妻の洋画家・絵本作家の俊(とし)(19122000年)が原爆投下の惨状を描き、1950年に発表した第13部「幽霊」「火」「水」(初期三部作)がよく知られている。しかし夫妻は、その後も連作として「原爆の図」を描き続けた。最後の第15部「長崎」を発表したのは、第1部から30年あまり経った1982年のことだ。夫妻についても、「原爆の図」の前後にそれぞれ一人の画家として描いた作品を見たことのある人は限られるだろう。

 

丸木夫妻を別々の画家として紹介

広島駅からタクシーで約10分、比治山(ひじやま)を登った公園内にある広島市現代美術館で開かれている「丸木位里・俊 ―《原爆の図》をよむ」展は、広島の美術館で初めて「原爆の図」を正面から取り上げた展覧会だ。と同時に、おそらく広島で初めて開かれた丸木夫妻の本格的な回顧展でもある。

観客はまず1階の展示室で妻・俊、夫・位里の順に戦前の画業を見た上で、地下の展示室に降りていく。そこには半円形の壁に沿って、屏風仕立ての「原爆の図」初期三部作がずらりと並んでいる。

全身を焼かれて皮膚がむけ(被爆者は「赤むけ」「ずるむけ」と呼んだ)、両手を幽霊のように前に垂らした人々。炎に巻かれる赤ん坊。水を求めて川辺に折り重なった遺体の山。地獄絵の中、聖母子像のように我が子を抱く若い母親ーー。

凄惨な描写に圧倒されながらも、そこに至るまでに見た戦前の作品から、異なる2人の画家の表現手法が「原爆の図」の共同制作にどう反映されたのか、おのずと理解される展示構成になっていることに気づく。

妻・丸木俊(赤松俊子)の展示室

 

南洋で裸体群像を描いた妻・俊

妻の丸木俊は、結婚前の画業が近年いくつかの展覧会で紹介されてきた。北海道から上京し、女子美術専門学校(現・女子美術大学)を卒業した赤松俊子(俊)は1940年、「女ゴーギャン」をめざして日本の委任統治下にあったミクロネシアを訪れる。上半身裸の住民を描いた滞在中のスケッチや、帰国後に描いた油彩画は、2008年の「美術家たちの『南洋群島』」展(美術館連絡協議会の企画で東京、高知、沖縄を巡回)などで展示された。

ところが今回、改めてそれらを見た上で「原爆の図」を前にすると、南洋体験で習得した裸体群像の表現が、閃光と爆風で着衣を剥ぎ取られ、苦しみにあえぐ「原爆の図」の老若男女の姿に生かされたことがすぐに見て取れた。

 

丸木位里の展示室。左は画面に白い顔料を流し掛けた「馬」(1939年)

 

前衛の日本画家だった夫・位里

一方の位里にも発見があった。「日本画家」あるいは「水墨画家」とも呼ばれる位里だが、戦前の作品を見るとイメージは大きく変わる。初めは伝統的な日本画を学んだものの、飽き足らずに前衛的な表現を追求し、シュルレアリスム(超現実主義)にも関心を寄せた。白い絵の具を画面に掛け流したり、油彩画と見まがうほど厚塗りを重ねたりと、洋画家の俊より先鋭的な手法を試みた作品もある。画面に顔料を流し掛け、描いた形象をぼかす手法は、「原爆の図」では薄墨を用いて効果を上げている。好んでモチーフに選んだ牛や馬の群れも、被災者たちの群像表現に通じるように感じられた。

2人は俊が南洋群島を訪れた1940年に出会い、翌年には結婚。俊が自分の作品に水墨表現を取り入れるなど、影響を与え合った様子もうかがえる。

 その2人が共同制作して「原爆の図」は生まれた。

2人の絵画手法が「原爆の図」に

戦時中、丸木夫妻は東京に住んでいたため原爆投下の瞬間を見ていない。位里は数日後、俊はさらに遅れて広島市三滝町(現・広島市西区)に住む位里の家族の元を訪れている。3年後、「原爆の図」の制作を思い立った時に参考としたのは、位里の家族から改めて聞き取った体験談や、広島と長崎で撮影された犠牲者の写真などだった。被爆体験や写真から間接的に得たイメージを再構成し、大画面の作品として破綻なくまとめ上げるために、それぞれの持てる絵画技術の限りを注ぎ込んだのだろう。

 

「原爆の図 第1部 幽霊」(1950年)=右=。左はその再制作版(1950~51年、後年に加筆)

 

原本と再制作版  並べて展示

展覧会場に並ぶ「原爆の図」は、1950年に発表した第1~3部「幽霊」「火」「水」(初期三部作)から、翌年に描いた第4部「虹」、第5部「少年少女」まで。いずれも「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)が所蔵する作品だが、この初期三部作には原本とは別に「再制作版」も存在し、96年に広島市現代美術館が収蔵している。今回、その3点が原本と並べて展示され、比較して眺められるのも見どころだ。

初期三部作は、完成した年から広島を起点に全国巡回展が行われた。その時には運搬と展示がしやすいよう、掛け軸に仕立てられていたという。連合軍の占領下で原爆被害の報道が規制されていた時代、「原爆の図」は原爆の実態を生々しく伝えるものとして人々の関心を集めた。

その再制作版は、アメリカでの展覧会開催を打診された丸木夫妻が、作品を貸し出したまま失われることを恐れ、5051年に画家仲間の手を借りて模写したもの。作業を急いだせいか、原本よりも描写がやや粗く、細部の相違点も目につくが、これも原本と同じように全国を巡回した。

「原爆の図 第3部 水」の一部

 

「原爆の図 第3部 水」(再制作版)の一部

 

展覧会では、夫妻が「原爆の図」のために行った裸体デッサンや、全国巡回展に集まる人々を描いたスケッチ、絵本「ピカドン」(1950年)の仕事、さらに「にんげんをかえせ」の詩を書いた詩人・峠三吉との交流なども紹介。夫妻が戦後、別々に描いた作品も展示している。

 

見る人に訴える「絵の力」

これほど充実した展示内容でありながら、残念なことに広島市民の反応はいま一つで、観客の入りもあまり芳しくないらしい。私が訪れた時も広島カープの日本シリーズ初戦を前に街がわき立つ中、スタジアムからも遠くない美術館が取り残されているように感じた。

私は1970年代後半~80年代前半、小学5年から高校卒業まで広島市に住んだ。当時は学校に被爆体験を持つ教職員がいて、放課後や文化祭で話を聞かせてもらったこともある。

市民の間に「悲惨な情景を描いた『原爆の図』をわざわざ見に行かなくても・・」「本当の原爆は、あんなものじゃない」といった複雑な思いがあることは想像がつく。それでも被爆体験を語る世代が減り続ける中、丸木夫妻の「原爆の図」が見る人に訴えかける「絵の力」が、被爆地・広島でも見直されてほしいと思った。

「原爆の図 第4部 虹」(右)と「第5部 少年少女」

 

 「原爆の図」について詳しく知りたい方には、次の本をおすすめしたい。小沢(こざわ)節子著『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年、岩波書店)は、作品の成立過程と描かれたイメージを詳細に分析している。岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回』(新宿書房)は、「原爆の図丸木美術館」の学芸員が巡回展の記録を掘り起こした記録。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

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