
<城、その「美しさ」の背景>第31回 小牧山城 信長が築き、家康が大改修した先進の構想
濃尾平野にそびえる標高約86メートルの小牧山。犬山城から眺めても、岐阜城から眺めても、平野の真ん中にそこだけこんもりと盛り上がっているのがよくわかる。 織田信長が清洲からこの小牧山に居城を移したのは、永禄6年(1563)
濃尾平野にそびえる標高約86メートルの小牧山。犬山城から眺めても、岐阜城から眺めても、平野の真ん中にそこだけこんもりと盛り上がっているのがよくわかる。 織田信長が清洲からこの小牧山に居城を移したのは、永禄6年(1563)
山城だからこそ残された天守 建つのは標高430メートルの山上。江戸時代としては異例の山城であったことが、備中松山城(岡山県高梁市)の天守がいまに残るうえで幸いした。明治6年(1873)に廃城になると、藩主の居所と政庁
諏訪湖に細長く突き出した「湖上の美城」 中学時代、城郭画家の荻原一青氏が描いた高島城の鳥瞰図を目にして、こんなに美しい城があったのか、と陶然と見入ったのが忘れられない。高島城は「諏訪の浮城」の呼び名のとおり、信濃国(長野
30年にわたる徳川氏の三河支配の拠点 いうまでもなく、天文11年(1542)12月26日に徳川家康が生まれた城である。ただ、これもよく知られている話だが、家康は岡崎城で育ってはいない。 天文4年(1534)
フランス軍艦の情報をもとした「西洋式築城」 日本の城としてはきわめて異質なかたちである。上空から見ると星形をしている五稜郭は、一般に「西洋式の築城」として紹介される。しかし、それは「最先端」とイコールではなかった。 五稜
キリシタン大名の手になる総石垣の近世城郭 寛永14年(1637)から15年にかけて起きた日本史上最大の一揆、島原の乱で、一揆勢が立てこもった城として、その名がよく知られている原城。平成30年(2018)7月に「長崎と天草
「美術展ナビ」の読者には「お城の評論家」としておそらく認識されているであろう香原斗志さん。しかしクラシックファンには、オペラを中心とした音楽評論家として広く知られています。そこで東京・京橋のアーティゾン美術館で開催されて
家康の次男のために築かれた大城郭 現在、福井城は本丸跡に県庁舎、県議会議事堂、警察本部などが建ちならび、その周囲を内堀が囲んでいる。堀幅は30メートルほどで、正方形に近い堀の一辺は二百数十メートルあり、それなりの規模を実
復興のシンボルとしていち早く復旧した大小天守 令和3年(2021)3月、熊本城の大小天守は復旧工事が完了し、ふたたび観光客を受け入れはじめた。 平成28年(2016)4月14日と16日、最大震度7の巨大地震に二度にわたっ
◇島原城(長崎県島原市) 4万石の大名による大城郭 南から北へ本丸、二の丸、三の丸が一直線にならび、累々たる高い石垣で固められ、広い堀に囲まれている。そして本丸には、『普請方記録』によれば「総高十七間一尺五寸」、すなわち