
美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第16回「いろはの㋟」――旅は道連れ、世は・・・・・・
浮世絵は、「風俗」を描くものとして始まった。だから、時代ごとの「ファッション・リーダー」であり、「スター」である役者や芸者、遊女や相撲取りが画題の中心で、「役者絵」と「美人画」が、浮世絵の「主流」だったのである。土地ごと
浮世絵は、「風俗」を描くものとして始まった。だから、時代ごとの「ファッション・リーダー」であり、「スター」である役者や芸者、遊女や相撲取りが画題の中心で、「役者絵」と「美人画」が、浮世絵の「主流」だったのである。土地ごと
遊郭・吉原は、江戸の住民からしても別世界だった。 言葉からして違う。「あります」は「ありんす」、「します」は「しんす」。様々な地方からやって来た遊女たちが、「お国言葉」で困らないように、と工夫したものだという。だからこそ
世界で一番有名な浮世絵、それはきっとこの「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」だろう。 荒れる海、翻弄される小舟。その向こうに屹立している富士の山。〈動と静のダイナミックな対比〉。太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんが編集
六代目中村歌右衛門が亡くなったのは、2001年3月31日だった。 寒の戻り。桜の花が咲き誇る中、日中には雪がちらつく。そして夜には月が煌々と照った。「雪月花の日」だったのである。戦後の歌舞伎界を牽引した希代の名女形は、2
電気というものがなかった江戸時代、夜は今よりずっと暗かった。その中で煌々とした輝きが絶えなかった吉原は不夜城そのものだっただろう。とはいえ、その輝きは深い夜と表裏一体だった。歌舞伎十八番『助六』のヒロイン、揚巻はこんなふ
〈師宣の出現で華麗な浮世絵版画の歴史の幕は切って落とされた〉 浮世絵研究でも知られる作家の高橋克彦氏は『浮世絵鑑賞事典』でこのように書いている。師宣とは、菱川師宣(?~1694)。切手でおなじみ「見返り美人」の作者である
浮世絵の制作は分業制。その工程は「下絵描き」「彫り」「摺り」に分けられる。今回はその「摺り」のお話。 〈浮世絵に高度な多色摺りが導入されるきっかけとなったのは、明和年間(一七六四~七二)のごく初期に江戸の好事家の間で流行
ネコの社会では、「立派な顔がいのち」だそうである。特に雄ネコにとって、「顔が大きい」ことは「男性ホルモンの分泌が旺盛」なことを意味するそうで、実際に「立派なお顔」の雄ネコはよくモテるし、ボスネコになりやすかったりするよう
その事件は今から300年以上前に起こった。 時は元禄14年(1701)、春真っ盛りの3月14日。江戸城松の廊下にて、高家・吉良上野介に赤穂藩主・浅野内匠頭が斬りつけたのである。あたかも江戸城では幕府が朝廷の使者を接待して
東洲斎写楽は、ナゾの多い絵師である。 まず、登場の仕方が突然だ。 写楽の名前が世に出たのは、寛政6年(1794)5月。江戸の都座、桐座、河原崎座の3座で上演された歌舞伎狂言に出演している役者の似顔絵が一挙に28図も出版さ