レポ 

一夜限りの「談ス/NUDE」 アーティストが語る ソウル視察レポ<後編>

 

独自の身体言語を駆使し、国際的に活躍するパフォーミングアーティスト、大植真太郎・森山未來・平原慎太郎の3人が2014年に立ち上げた「談ス」。
ダンス、演劇、アート、コント、プロレス、放課後の戯れ……そのどれでもあってどれでもない唯一無二のパフォーマンスとして、上演を重ねるごとに各界に撹乱を仕掛けてきた。

 

今年5月から6月にかけては、待望のシリーズ第3作となる『』(読み方は自由)の全国ツアーが決定。
そのプレイベントでありスペシャルバージョンとして、4月5日(木)、一夜限りの新作パフォーマンス『談ス/NUDE』を横浜美術館グランドギャラリーで上演する。
イギリスのテートの企画により、世界各地の美術館を巡回してきた「NUDE」展の特別企画。西洋美術史のなかで最も普遍的かつチャレンジングなテーマともいえる「ヌード」に『談ス/NUDE』が挑む。
そこで2017年12月、韓国・ソウルに巡回中の「NUDE」展弾丸視察ツアーに同行。彼ら3人の展覧会をめぐる感想や考察、さらに新作への思いを聞いた。

 

 

ソウル会場の看板

 

「NUDE」展会場であるソマ美術館に到着し、ようやく集結した大植真太郎、森山未來、平原慎太郎の3人。さっそくテーマ別に横浜美術館から同行した長谷川学芸員の解説を聞きながら展示室を廻りはじめる。

 

 

 

まず第1室の「物語とヌード」セクションでは、古代神話や聖書、文学から題材をとった歴史画に描かれたヌードを鑑賞。19世紀、絵画の主題は、セクシュアリティそのものではなく、神話や歴史に紐付けなければならなかった。特にヴィクトリア朝時代のイギリスでは、ヌードの「官能性」と「品位」の適切さをめぐって道徳観念から議論が交わされた。
なかでも3人が注目したのは、ジョン・エヴァレット・ミレイの『ナイト・エラント(遍歴の騎士)』、ハーバート・ドレイパーの『イカロス哀悼』。

 

ジョン・エヴァレット・ミレイの「ナイト・エラント(遍歴の騎士)」を鑑賞する3人

 

「登場人物たちが視線をかわしたり交わらせたりする構図に、男女の関係性を込めたんでしょうか」(大植)

 

ローレンス・アルマ=タデマの『お気に入りの習慣』で描かれた公共浴場の描写も話題にのぼる。

 

「ここまでヌードが主体の、裸体に裸体を重ねていく構図は古典美術ならではなんですね」(平原)

 

「古代ローマの浴場の絵画を見ると、パブリックな場所でヌードは当たり前の存在で、恥ずかしさや罪の意識は共有するものだったのかなと。みんなが大植さんみたいなもんですね(笑)*前編参照」(森山)

 

 

 

続く「親密な眼差し」のセクションでは、エドガー・ドガピエール・ボナールらによる、密室のなかでくつろいだ様子で横たわり、入浴する裸婦像が並んでいる。オダリスクと呼ばれるトルコの後宮の女性たちを官能的に描く主題もちらほら。

 

「身体つきもいかつくないし、リラックスしたポーズ。私生活の延長のような描き方はパフォーマンスの作品づくりにも参考になります」(大植)

 

ピエール・ボナール《浴室》
1925年 油彩/カンヴァス
Tate: Presented by Lord Ivor Spencer Churchill through the Contemporary Art Society 1930, image © Tate, London 2017

 

 

 

次は「モダン・ヌード」のセクション。アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカ『赤い石のダンサー』『レスラー』。ウィンダム・ルイス『インディアン・ダンス』。ウィリアム・ロバーツ『ジムで運動するアスリートたち』。身体表現の造形的な研究と分析が始まったモダニズムの時代の絵画や彫刻が集められ、それはまさに彼ら3人の日常である身体の対話に直結するテーマ。

 

「技が決まってますねー。この空間に肉体がはまっていきそうな構図が好きです」(平原)

 

ハンス・ベルメールヘンリー・ムーアのモダニズム彫刻の展示室では、独特の作為的な人体ポーズに興味津々の彼らは作品を取り囲み、さまざまな角度から観察した。

 

 

 

続いて「エロティック・ヌード」のセクションへ。
『ベッドに横たわるスイス人の裸の少女とその相手』(「スイス人物」スケッチブックより)ほか、風景画家として知られるウィリアム・ターナーが密やかに描いていた “幻”のヌードは見どころのひとつだ。

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 《ベッドに横たわるスイス人の裸の少女とその相手》 「スイス人物」スケッチブックより 1802年 黒鉛、水彩/紙 Tate: Accepted by the nation as part of the Turner Bequest 1856, image © Tate, London 2017

 

また本展最大の目玉である、ロダン彫刻のなかで最も彼自身のエロティシズムの発露を匂わせる『接吻』に圧倒された3人。

 

「接吻」を鑑賞する平原さん

 

さらに、パブロ・ピカソルイーズ・ブルジョワデイヴィッド・ホックニーらの版画が展示された部屋では、食い入るようにディテールに目をこらす。

 

「ピカソの娼婦を描いた版画はまるで春画。絵を観ることが覗き見の行為になる。手塚治虫さんのエロティックな描写を思わせます」(森山)

 

ピカソの版画を見つめる森山さんと平原さん

 

 

 

レアリスムとシュルレアリスム」では、ポール・デルヴォー『眠るヴィーナス』やマックス・エルンスト『男はこれについて何も知らない』などの作品を観て、その精神分析的アプローチに妄想をめぐらせる彼ら。

 

 

ポール・デルヴォー《眠るヴィーナス》
1944年 油彩/カンヴァス
Tate: Presented by Baron Urvater 1957, ©Foundation Paul Delvaux, Sint-Idesbald-SABAM Belgium / JASPAR 2017 C10729, image ©Tate, London 2017

 

 

また、このセクションのなかでもひときわクールな作品、森山未來イチ押しのマン・レイ『うお座(女性と彼女の魚)』をめぐっては、「魚がいる」「いやいない」「むしろ魚しか見えない」と侃々諤々の論争に……。

 

 

 

そして「肉体を捉える筆触」セクションでは、フランシス・ベーコンルシアン・フロイドの生々しい肉感表現もさることながら、ルイーズ・ブルジョワが鮮烈な赤で描いたドローイングが大植を魅了する。

 

「身体が抽象化されているのに、ビビッドで強い生の根源を感じます。彼女の生き方そのものに強く惹かれるんです」(大植)

 

ブルジョワの作品の前で。

 

 

続く「身体の政治性」セクションでは、サラ・ルーカスや、ジョン・カリンによるジェンダーやセクシュアリティについて問いかける猥雑なイメージを前に、彼らも多様な身体性について深い考察をめぐらせていた。

 

 

 

そして最後のセクション「儚き身体」。

ここは3人が特に強い刺激を受けた展示室だ。
シンディ・シャーマンが、ヌード撮影を終えたばかりのモデルを演じた“ピンクのローブ”シリーズのセルフポートレートは、観る者を三方から取り囲むように展示されていた。

 

シンディ・シャーマン《無題#97》
1982年 タイプCプリント
Tate: Purchased 1983, ©Courtesy of the artist and Metro Pictures, New York

 

「このゾーニングには等身大の身体と視線に囲まれる体感がある。ダンサー同士がお互いの身体を理解したりコントロールする過程では、抑制された身体に対して恥ずかしさや照れみたいなものはなくなっていくけれど、この写真の場合は見る側との距離感のグレーゾーンにグッとくる」(森山)

 

リネケ・ダイクストラが出産後間もないの女性のヌードを撮影したシリーズでは、剥き出しの無防備な身体のフラジャイルさと強かさが際立つ。

 

「生まれもった“ヌード”の強さ。展示の最後を産後の女性で締めくくるというのは、すごく“素”でパーソナルなアプローチがパブリックになる瞬間ですよね」(大植)

 

「真っ直ぐな観方だけでなく、テーマやコンセプトを知ると副音声を聴いてるかのように後から重みが伝わってくる。ここまでヌードというしばりで観てきて、最後に気づきがありました。個人的にも共感しました」(平原)

 

 

18世紀から現代まで、西洋美術史をたどりながら「ヌード」を通して人間を知ろうとする「ヌード NUDE ―英国テート・コレクション」展。こうしてすべての展示作品を見終わり、4月5日に発表される『談ス/NUDE』の構想に向けて、彼らは果たして何を思ったのだろうか? 鑑賞後、会場近くの食堂でチゲ鍋とビビン麺をつつきながら熱い意見交換がおこなわれた。

 

 

「裸体を隠すのか、堂々とそこに存在するのか? 目線がこちらと合うのか、合わないのか? それぞれの作品を見比べるほどに身体がズシンとくるのが新鮮でした。『談ス』という舞台が観客を拘束することのできる一定の時間と空間で、ヌードをどう巻き込んでいくか。これから構想していきます」(大植)

 

「アートをヒントに、作家の意図や立場、思いを共有したことをパーソナルな視点にも生かして、本番に臨みたいです。こうして僕らが言葉を寄り添わせていくことで熟成していく作品かもしれません。作品の強靭な芯、骨格を模索していきたいと思ってます」(平原)

 

「ときには表現の規制をかいくぐったり、その規制を逆手にとったり。美しいものもあれば、過剰に醜いものもある。過去から現代へ向かうほどパーソナルな思想を求めてくる作品が多くなる。西洋の文脈でヌードの意味を考えさせられました。じゃあ日本人の身体性をどう捉えて、どう際立たせるのか? それが作品の方向性を決めると思います」(森山)

 

歴史上、いくども論争を繰り返してきた「ヌード」の美学を問い直す本展。おびただしい数の芸術家たちは裸の身体にどのようにアプローチしてきたのか。その多様な変化を受けとり、独自の考察をたがいに絡みあわせたパフォーミングアーティストたち。彼らがつくりだす新たな身体言語に大いに期待したい。

 

 

住吉智恵(アートプロデューサー・ライター)

 

※ソウル会場と横浜会場では展示方法や構成が異なる作品がございます。

 

展覧会チケットの購入はこちら

 

 

 

 

大植 真太郎(Oue Shintaro) ※写真右

1975年、京都府出身。17歳で渡独以降、ダンサーとして活躍し、2006年より創作活動開始。2008年C/Ompany立ち上げ。現在はスウェーデンを拠点に、日本、オランダ、イタリアで活動を展開。ダンサーとしてローザンヌ国際バレエコンクール入賞。振付家として2005年、ハノーバー国際振付コンクール最優秀賞など多数。

 

 

森山 未來(Moriyama Mirai) ※写真中央

1984年、兵庫県出身。数々の映画・ドラマ・舞台に出演する一方、ダンス作品にも積極的に参加。文化庁文化交流使として2013年より1年間、主にイスラエルに滞在、ベルギーほかヨーロッパ諸国にて活動。映画「怒り」にて第40回 日本アカデミー賞助演男優賞受賞。第10回 日本ダンスフォーラム賞 2015受賞。

 

 

平原 慎太郎(Hirahara Shintaro) ※写真左

1981年、北海道出身。2007年より国内を中心に振付家、ダンサーとして活動。ダンスカンパニーOrganWorksを主宰。演劇作品にも関わる。2011年韓国国際モダンダンスコンペティション最優秀振付家賞受賞、2015年小樽市文化奨励賞、2016年トヨタコレオグラフィアワードにて次代を担う振付家賞、オーディエンス賞をW受賞。

大植真太郎、森山未來、平原慎太郎による活動の紹介
国境を越えて活躍する大植真太郎・森山未來・平原慎太郎の3人。身体全体を使って、その独特な世界観を表現するパフォーマンス「談ス」を2014年に立ち上げ、2016年には異例の全国15都市を縦断し、上演を重ねてきました。来たる2018年5~6月には、待望の談ス・シリーズ第3弾の上演が予定されています。

 

 

 

以下は「談ス」の紹介です

 

 

大植真太郎  Oue Shintaro

 

合わせる
どちらも消えてなくなる(が第三の形が立ち上がる)
線を引く
差・境界できてしまう(が個々として成り立つ)
右から読む
左から読む
同時に読む
音には出来ないが新たな意味が浮かぶ
平面に書かれた数本の線から立方体が浮かぶ
それ以外の立方体を想像するには時間がかかる
そして、
死角の発生が起こる・更に言えば半分しか結局見えていない

目に見えるものが全てだ。目が見えるということはそういう事で、それ以外は信じないし疑いをも持たない。では今回のこのタイトルはどうだろう? 自分の中での第一印象から日々変化してまた戻り一人で「何やねんっ」って突っ込んだり、取り敢えず今はこの目に見えるモノとにらめっこ。しかしそれも疲れてくると次の次元に入る。それは目を閉じてこれが無かったことにしたり又はこの裏側を手探り弄ったり、そして今度はこねまわす。素材はよくよく見知り触りある戦友である。まだこねないうちに勝手に妄想し形にしてしまうと危険だ。
だから取り敢えず今は放置。誰かが拉致って「何やねんっ?これ」って言われるまで無かったことにしておく。やっては忘れ、悔やんではやって忘れ、その繰り返しを幾度となく繰り返して作品ができる。できる!そう、まだ何もない。何もないから可能性を感じ不安になり身震いが凍死になり闘志なりかわり、そう、ころころ変わる。前が後ろで右が左、丸まった正方形に角のある丸、、、、、目を閉じれば見えてくる。そうだよね?っと二人(森山・平原)に尋ねて右手も左手も同時にガイドしてもらう、そしたら足は勝手に動く、そうだよね?

 

 

 

森山未來  Moriyama Mirai

 


このタイトルをみなさんはどう読まれますか?
縦書きもあれば横書きもあり、なんなら横書きは右からでも左からでも読む、そんなことが可能な言語は日本語だけなのではないか。
時代の変遷によって様々な海外の文化を取り入れ、独自に編集を重ねていった結果がこういうことに繋がるわけですが、こうやって、海外から入ってきたものを反発せずにうまく吸収して、自分たちの文脈にさらりと取り込んでしまう。
なぜこんな芸当が日本にはできるのだろうか。
そんな日本というものをスウェーデン在住の逆輸入な大植真太郎を筆頭に考えてみよう。そんなコンセプトから始めてみます。
まぁ結局は、平原慎太郎の絶妙なトークセンスと大植真太郎の即席ベジタリアンなキン消しに尽きるのかもしれませんけどね!

 

 

平原慎太郎 Hirahara Shintaro

 

あべこべになりますが、はじめに補足させていただきますと、今回のも「ダンス」なのかと言うと「ダンスかもしれない」くらいのものです。僕はね。
ちなみに前回はプロレスと揶揄されたり、いわゆる「ダンス」には見えづらいようです。
言い換えれば「ダンス未満の何か」。という事で今回も「何か」を追及して、面白いものを作り上げたいす。
「ダンス」への愛を、愛するゆえに存在を疑い、様々な角度から見つめる。そしてどんな中にもいる「踊りな瞬間」を見つけたいんです。
何かの中に踊りはあったかを問いかけたい気持ちで皆様の前に現れます。子供の頃いましたね、質問小僧。あれです。
大植真太郎も相変わら筋肉マッチョです。森山未來も相変わらずスマートガイです。この3人で再び集い、踊り以上、ダンス未満のものを探す機会は本当に嬉しいです。是非超良いバランスで調子に乗ってる我々を目撃しに来てください!

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