インタビュー

未来永劫、描かれてゆく。 諏訪敦に聞く「ヌードを描くということ」

 

独自の写実表現で注目される画家・諏訪敦。描きだすヌード作品の佇まいは、脳裏に焼きついて離れない。作家として、また鑑賞する側として、「ヌードを描くということ」への眼差しを聞いた。描かれ続ける〈ヌード〉という巨大な存在には、作家それぞれの捉え方がある。本展のなかで、気になる作家とは――。

人間そのものをどうとらえるか、その周辺を描きたいか

 

――〈ヌード〉を描く作家というお立場で、本展について伺えればと思います。全体のテーマはいかがですか?

 

諏訪 人類が絵らしきものを描き始めた時点で〈身体〉を描くということはあったでしょう。そう考えると数万年の歴史かもしれない。しかし本展で扱う内容は西洋美術限定。それも19世紀以降から現代に至るわずかな期間です。それ以前の西欧社会において、人物像~裸体画の捉え方はわりとゆっくり移り変わり、変化に乏しかった。19世紀以降は、社会制度とテクノロジーの変革とリンクして、芸術の潮流が10年刻みくらいでめまぐるしく変化している。そんな忙しい歴史を俯瞰できる。だから章立てが8つでも足りないくらいですよね。

 

 

――そのなかでも、気になる作家、作品はありますか。

 

諏訪 通覧すると現代と繋がっている感覚をもって眺めることができました。そのなかでも、ジャコメッティフロイドには僕自身がとても影響を受けていて、印刷物などで見続けてきたので、忌憚なくいえば飽きてもいるのですけど(笑)、やはり外せないものなのですね。このふたりの存在が私にとって際立って見えるのはどうしてかを考えてみると、「人間そのものを扱おうとしているから」ということでしょうか。人間は社会的な動物だから、ある社会的な条件下にあって、それに応じた社会的な属性があるでしょう。そのアイコンとして絵を描くとか……それを記号的に表すというような。実は本展に出ている作品にはその種のものが多い。

 

ルシアン・フロイド《布切れの側に佇む》
1988–89年 油彩/カンヴァス
Tate: Purchased with assistance from the Art Fund, the Friends of the Tate Gallery and anonymous donors 1990, ©Lucian Freud Arcjive/Bridgeman Image, image © Tate, London 2017

 

これはたまに自分の制作エピソードとしてお話しすることなのですが、僕がある人のことを描くとしたら、その人を可能な限り知ろうとし多くの取材をします。その際、誰もが自分や他者を語るときにはこんな具合です。「何処出身で、学歴はどうで、パートナーはこんな人で、現在はどんな職業に就いて……」とか。でもそれはその人の本質ではないでしょう。そう。説明を重ねるほど、その人の実体とは遠ざかることに気づいたことはありませんか? つまり、その人のコアな部分を中空にして説明要素はドーナッツのように、どんどん周囲に増えていきますが、永久にその人の本質にはたどり着かない。

 

例えば幾何学の〝点〟は、同一平面上にある2直線の交わりですが、「点そのものを取り出してみろ」といわれたら困ってしまいますよね。概念なのですから。人間そのものに注目し描こうという欲望は、そんな不可能な要求を満たす行為に似ていると思います。なるほど円の中心にだって、〝点〟は確実に存在するに違いない。ですが説明としては表現できても、〝点〟それそのものを示すことは困難でしょう。

 

人間もそう。服はその人の社会的立場や属性を暗示してしまうので余計な情報といえます。ヌードを描く理由はこういった必然もあるわけです。一方で、特に本展の〈身体の政治性〉(7章)あたりに顕著ですが、時代を象徴する絵画は、絵そのものや人間そのものよりも、政治性やマイノリティ、フェミニズムといった社会問題や美術界のメタなトピックが全面に出てきて、批評性に目がいってしまう。当然、ジャコメッティ作品が実存主義と接続されてしまったように、どんなアーティストも時代の精神と無縁であり続けることは不可能なのですが、少なくともジャコメッティ本人は、ドーナッツの中心……人間そのものを描こうとしていたように思うのです。

 

 

――たしかに、ステートメントやメッセージを読み解こうと思って、作品を観てしまうことがあります。

 

諏訪 ふと展覧会を俯瞰して思ったんですが、1章の〈物語とヌード〉以外、2章以降は、裸体の理想化を避けているんですよね。19世紀まで権威側だったアカデミシャンたち……つまりラファエロあたりから連綿と続く〝美の規範〟に囚われた制作は、20世紀以降には愚かしいと断罪されましたが、逆に上手くあってはならない、美しく描いてはならないというような、バイアスがかかっているのではないかと疑ってしまいます。

 

本展のなかでも例外を探してみましょう。ジョン・カリンは美を確信犯的に扱っていますね。僕は彼の狡猾さに魅力を感じているのですが、理想化があたりまえだったルネサンスの表象を引用して、虚ろな現代の肖像を多く描いています。具象絵画という半殺し状態の表現メディアを、ときにはポルノグラフィーまで動員してリブートしていく姿にはシンパシーを感じます。

 

もうひとりは、ロバート・メイプルソープでしょうか。彼の作品は、まあカッコいい。花のように男性器を扱い、女性が獲得したマッチョな肉体、性的マイノリティ、倒錯者、強烈なナルシストなど、当時社会の規範から外れていた人たちに、貴人のような美と品格を写真の中で纏わせるなんて。そこには画面の完璧性と、価値観の逆転が見られます。その濃厚なタナトスの引力と、圧倒的な美しさには魅了されましたね。表象的には時代遅れの新古典主義的に似ているのに、むしろそれが価値の転換にはふさわしいフォーマットであり、新しく、強い。

〈ヌード〉は、人間が人間に対して関心を持ち続ける限り、いつでも復活してくる

――諏訪さんは、制作において政治性、あるいは社会性というものを意識はされませんか?

 

諏訪 どんな芸術作品にも当然、政治や社会の影響はあると思います。誰もがアーティストであると同時に生活者であるわけだし。でも僕には反射的に最新のトピックに食い下がっていくというバイタリティはありません。そもそも絵画は即時性が乏しいメディアであるからです。ですが一方で〝普遍性〟なんて無責任な言葉に逃げ込みたくもありません。

 

確かに僕にポリティックな側面があることは、近年顕著になってきています。2016年に、NHK ETV特集で「忘れられた人々の肖像 ~画家・諏訪敦 “満州難民”を描く~」として制作現場が紹介されましたが、このプロジェクトはなんだかんだで5年間もかかりました。自分にいつも言い聞かせているのは、ゆっくり、丁寧に。それも個人に照準を合わせた制作で精一杯。いわば時間感覚を意識的に脱臼させつつ、この種の制作には取り組みたいと考えています。

 

人の身体を描くという行為はおそらく途絶えることは無いと思います。人間が人間に対して関心を持ち続ける限り、いつでも復活してくる。人間の意識とか感覚を、完璧に身体と分離できたらパラダイムシフトをみるかもしれませんが、いつか滅びる身体あっての人間である限り、〈ヌード〉は未来永劫描かれていくものだと思います。

 

 

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〈諏訪敦プロフィール〉 1967年、北海道生まれ。高密度な描写をみせる絵画で、同時代的テーマを描く画家。1994年、文化庁芸術家派遣在外研修員としてスペイン在住。2016年、NHK ETV特集「忘れられた人々の肖像 ~画家・諏訪敦 “満州難民”を描く~」放映。主な個展に、2011年「諏訪敦絵画作品展~どうせなにもみえない~」(諏訪市美術館/長野)、 2014年 「Sleepers」 (Kwai Fung Hin Art Gallery/香港)、2015年「諏訪敦絵画作品展~美しいだけの国~」(成山画廊/東京) など。最新作品集「Blue」(青幻舎)が発売中。「ヌード」展と同じ会期で開催される「横浜美術館コレクション展」では、諏訪敦のヌードをモチーフにした作品も出展される。
公式サイト http://atsushisuwa.com/

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